あれから、はや20年・・・。

平成十年夏、まほろばの会などで黛敏郎さんや犬養先生とともに講演活動を行ったり、公私ともに親しくされていた高田好胤さんが逝去された。横浜一中(神中)時代の教え子だった黛さんを前年に見送られた上、すでに心身ともに弱っておられた犬養先生がよりショックを受けられるのでは・・・と話題にするどころか、私たちは翌日の朝刊も隠して何事もなかったかのように時をやり過ごした。 ・・・つもりだったが、一ヶ月以上も経ってから「好胤さんも亡くなってしまったね」とポツンとおっしゃったのを聞いて、驚くよりより先生の悲しみの深さを知った。
その秋、入・退院されたり、自宅でもベッドの生活となられた。先生の体調が日々不安定な中、例年ならば私は犬養先生に随行して出かける富山県高岡市の万葉まつりだったが、一人で参加することとなった。出発前日に病床の犬養先生を訪ね、耳元で出かけることを伝えて心を残しての出立だったが、あとで家人の方が、亡くなられる直前まで「今、オカモが高岡に行ってますよ」との呼びかけに反応されたと聞いた。きっと最後まで心は万葉故地に向いておられたのだろう。忘れもしない、万葉まつりの二日目の午後一時半、私は高岡市万葉歴史館の屋上庭園で犬養先生の「立山の賦」の歌碑を見ていた。犬養邸から着信が入り万事休す。犬養門下では示し合わせて万葉まつりが終るまで公表しないことで平静を保っていたが、夜の「故地交流会」の会食中に、訃報を知られた中西進先生が公表され、会場中に重苦しい空気が流れた。私は万葉まつりが終わるなり帰宅し犬養先生と対面した。熊本五高の浴衣姿で床についておられた先生に、最後の最期まで付き添えなかったことを思うと今でも残念でならないが、私が高岡に行ったことを先生は喜んでくださっていたのだと信じている。そして、通夜の日、十月五日はなんと明日香村では中秋の観月会の日だった。教え子の何人かは、先生とのお別れは飛鳥で・・・と通夜・葬儀には参列せずに飛鳥で月を臨みながら犬養先生を偲ばれた。あまりにドラマチックだったが、犬養先生を送り、偲ぶにはもっともふさわしいような気がした。
昨日は、平成30年10月3日。ご自宅でもお祀りなさっていた。私たちの犬養先生は永遠です・・・。

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