八木亜夫さんに再会。

ずっと以前、毎日新聞で取材をして頂いた論説委員の八木亜夫さんの
ご講演があることを教えて頂き、私も是非とも!…と参加した。
タイトルは「近頃の日本語」。
私が取材をして頂いた時の雑談で「君が代」が話題になったことを思い出す。
公立小学校で「君が代を歌わない」教育にあって、当時、中学生になった娘から
「君が代」を教えてほしいと言われた時のショック。日本人であれば当然覚える
べきものと思っていたのに、「知らん?」習ってもいないなんて!!!(泣)
そして八木さんも「君が代を知っていても言葉が分かっていない。私も娘に苔の
ムースってな~に?」と聞かれ仰天した…などとお話をされたこと覚えておられる
かしら。
それから時を経て、「日本語」は進化したと言うべきなのか、いや、はっきりと
退化したと言うべきか、世の中の移行と共に時代を反映した「言葉」の歴史が
刻まれているのは確かだ。言葉は流行語しかり、自然淘汰されていくものだと
八木さんがおっしゃっていたが、確かに話し方・書きものを通じた「言葉」の
使い方からその世代や当時の流行が私でもわかる。
ワープロ・パソコンの日常化で、変換で簡単に漢字が取得でき、読むことは必要でも、
書くことの少なくなった今日に、文科省で討議し、決定しようとしている常用漢字の
制限は本当に必要なのか?と問いかけられていたが、その通りだと思う。
(そもそも私自身当用漢字と常用漢字の線引きもよくわかっていないので…。)
間違った使い方のままマニュアル化されている「コンビニ敬語」や、皇室記事
における「敬語」(天皇陛下が来た!は許されるか…)←「陛下」がすでに敬語で
あることから、表現が悩ましい…など。また、言葉を使用の都合上勝手に変化させて
用い、それが、今日の「言葉」として堂々と定着してしまっている例(だらしない
→しだらない)など伺い、実際の「日本語」の混乱ぶりにあらためて「日本語」の
持つデリケートさや、本当の正しい日本語は誰が伝えていくのだろうかと考え
させられた。
また、八木さんは今最も興味を持っておられる「源氏物語」について話されたが、
長年の課題としておられた全巻を半年がかりで読破をされ、1000年以上前に書かれた
大長編小説の偉大さを熱弁された。
私も高校時代(教科書)、大学の国文科時代(岩波古典全集)、大人になってから
(円地・与謝野・村山源氏本)などでいろんな読み方をしたが、今では断片的な記憶に
なってしまっている。八木さんのお話を聞きながら、あらためて読み返したいと言う
気持にかられてきた。
それは、今回に限らず、文学書や特に古典は、どこか「読まなければ…」と受け身な
思いで読書してきた自分がいる。八木さんのお話を聞きながら、今までは自分から
「その作品」に向かって読書する姿勢がどこか欠けていたように思う。
確かに「万葉集」には私は楽しく向かい合っている。
もう一度源氏物語にチャレンジしてみようかな…と思わせて頂いたひとときだった。
古典作品ではなく、今度は当時の女流流行作家、紫式部の連続長編小説!?として
楽しく読めるだろうか? ちょっと楽しみになってきた。
八木さん、有意義なご講演の機会に与らせて頂き、ありがとうございました。
また是非、「近頃の日本語」の続きを聞かせて頂きたい!!!


0 返信

返信を残す

Want to join the discussion?
Feel free to contribute!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA