信州の旅(②千曲川の歌碑)

全国に141基ある犬養万葉歌碑も、時代と共に状況が変化し、移転したり、所有者が変わったり、時には歌碑が行方不明になったこともあり、建立された場所、状況が永遠ではないことは、今までも何か所か経験がある。このたび確認のために出かけたのは長野県の千曲市の戸倉上山田温泉の温泉旅館、佐久屋さんの跡地だった。ご主人の小林さんご夫妻そろっての犬養ファンで、私も東京の会合では必ずお目にかかっていた。東歌の「信濃なる千曲川の細石も君し踏みてば玉と拾はむ」は、犬養先生のおかげで一躍「有名歌」となった。著書『万葉の旅』執筆の頃から、付近をくまなく踏査され、万葉の旅では学生をはじめ多くの人々を引率して河川敷を案内された。佐久屋さんとのご縁のきっかけも想像できる。佐久屋さんは宿の入り口に念願の犬養先生揮毫の碑を昭和61年に建立された。平成19年、犬養先生生誕100年記念イベントで犬養万葉顕彰会(会長;岡本)で東国万葉旅行を行った時に、80名全館貸し切りで、宿泊させていただいたが、今や貴重な思い出となった。

その後、温泉街の親睦バス旅行なども減り、上山田温泉も人が遠のいていったが、川沿いの土手に千曲川万葉公園があり、そこには、昭和60年に町おこしのために文学碑を数多く建て、整備拡充事業を行った時に作られた公園で、犬養先生は千曲川の中州を思わせる「中麻奈」を詠んだ、やはり信濃の東歌の歌碑を揮毫されている。佐久屋さんの後継者問題もあり、ついに廃業が決まり、宿の歌碑は万葉公園に寄贈、移設された。2年前の大雨の千曲川の決壊で万葉公園も心配されたが、無事で何よりだった。

エレベーター

今回もう一つの懸案は、佐久屋さんの女性風呂のタイル壁面にはめ込まれた「試し彫り」の碑の行方だった。旅館は手放された後、不動産屋さんの手によってリノベーションされ、客室を利用したマンションに変身していた。一見建物は変わらず、お風呂はどのようにリニューアルされ、そして「試し彫り碑」は残っているのかというのが今回のミッションだった。

ありがたいことにお風呂は改築工事の範囲から外れており、手つかずの倉庫のようになって残っていた。不動産屋さんの社長立ち合いのもと、確認させていただいた。「あった♥」

訪問の打診から、社長さんも貴重な(マニアックな)試し彫り碑であることを知られ、今後どうされるかわからないが、女風呂から移動してもきっと大事にしてくださることだろう。所有は会社となる。

過去、木綿山歌碑、福徳銀行辰口歌碑、高師浜病院歌碑、桜井ユースホステル歌碑など、個人で建立された犬養歌碑が行き場を失って、私たち関係者たちで移設先を探したり、行政に管理してもらえるように申請をしたり、いろんなことを経験してきた。建立された以上は、終生大事に管理、手入れまで責任を持てる確約がないと・・・と私たちも犬養歌碑が増える喜びと共に、保守されることへの思いも一入だ。千曲川万葉公園に仲間入りした2基目の犬養歌碑。恩師の佐佐木信綱先生の歌碑と同じ安住の地を得たことに今は安堵している。

信州の旅、最後は千曲川万葉公園を造られた当時の町長のご自宅へ。

信州の旅3題(①安曇野)

暑中お見舞い申し上げます。

4月に平城京のいざない館で開催された「アートと万葉歌の出逢い」万葉植物ボタニカルアート展が、巡回展示されることになり、7月16日から8月28日まで長野県安曇野市「国営アルプスあづみの公園」でただいま開催されています。

北アルプス、穂高の麓の安曇野の三郷には、母の義妹の実家があり、平成13年に叔母が亡くなってからは墓参を兼ねて、母や家族と共に2度ほど訪ねたことがありました。その後妹さんが一人で旧家とお墓を守ってこられましたが、叔母が亡くなったころからすでに失明状態で、時々出していた「昼下がり通信」も全く読めなくなったと聞き、コロナ禍を挟んで消息不通になっていましたので、このチャンスを神様に感謝しつつ、早くから予定を立てておりました。ところが間際になってから父の救急搬送や、高岡の動画朗唱準備や、体調不良(ぎっくり腰)などあらたな案件が加わり、かなりタイトなスケジュールな毎日に、ひょっとして信州行きは無理ではないかと内心あきらめムードもありました。背中を押してくれたのは、弟夫婦の支えと犬養先生の「今しかできないことをやりなさい」の言葉でありました。20日から2泊3日の旅。

明日香村の国営公園も地区が分散していますが、それぞれ管理整備は素晴らしく、今日、明日香村を訪問され、飛鳥に感動されるイメージを支えているのは、甘樫丘であり、石舞台であり、高松塚であり、キトラ古墳であり、公園財団の管理、整備のおかげであると言っても過言ではないように思います。日本の公園文化の中で特に歴史的に価値ある飛鳥、平城京も含めての奈良県をはじめ、そして安曇野は北アルプスの素晴らしい自然の保全と活用を今回見て、これからもまさに自然環境の番人であってほしいと強く思ったことでした。

さて、ボタニカルアート会場は、「あづみの学校」と言う木造で、奥には地元の古民家をそのまま模造して民俗博物館的なコーナーもあり、雰囲気のある建物の中でした。また八角?に設計された多目的展示コーナーに整然と展示された様は素晴らしく、作品の大きさの違いがあったり、いざない館では所狭しと展示された感がありましたが、とてもよい展示風景が広がっていました。訪れる人がこの特別展に気づいてくださるように、もう少ししっかり案内表示をしてほしいと思いました。

会いたかった滋子さんは独り暮らしで目が不自由な上に、ほぼ寝たきりの生活をされており、叔母が68歳で逝去しましたが、6歳違いという妹の滋子さんが82歳になっておられ、時の流れを残酷に感じました。旧家の一族が近所におられるので、助けられながらの日々だそうです。ずっと以前の便りでは「三千代ちゃん、裏木戸をたたく音がするから見に行くと熊が来てたの。怖かったわ」などと、自然の共生に驚きもしましたが、それから、10数年、旧家の娘として、家、お墓を守ることからたった一人でずっと生活を続けておられることに胸が痛くなりました。叔母のお墓は実家の坂道を上ったリンゴ畑の一角にあります。後ろ髪をひかれながら退出した後、一人でお参りしました。お花も手向けずごめんなさい。

私の最初のミッションは果たせました。安曇野は本当にいいところです。地球温暖化で、公園内も雪も積もらなくなったそうです。(以前は30センチくらい積もってたらしい)。信州りんごの産地ですが、温暖化で、桃・ぶどうなど生産の果樹の種類も増えたとか。地元を流れるからす川にはニジマスと信州サーモンが泳いでいました。地元ならではの七夕の釣りびなや、落雷から身を守る石窟など、あづみの学校の学びは楽しかったです。(まさに飛鳥の里山クラブですね。)ボタニカルアート展の盛会をお祈りしています。

 

幸せな1日♥ 交野が原万葉学級の皆さん、ありがとう!

高岡市万葉まつりの目玉イベント、「万葉集全20巻朗唱の会」も33回目だそうです。おそらく私は皆勤のはずです。(笑) 2年前からのコロナ禍が、この行事に新たなスタイルを生み出しました。そして、イレギュラーな3年目の今回は、いよいよ地元での万葉まつりの開催と、朗唱は動画参加の2本立てとして企画され、募集が始まりました。なかなか高岡万葉まつりや、朗唱の会に参加できない人もネットを通して全国展開し、かえって魅力発信の範囲が広がったように思います。

1年目は、高岡市も手探りで、「万葉を歌う」岡本三千代と万葉うたがたり会が協力させて頂くということで、私たちの出演はもちろん、全国に広がる犬養万葉ネットワークのお仲間をお誘いしたりして、無事に新たな企画は成功しました。そして去年はその経験をもとに、積極的に参加する自治体の万葉愛好者グループなどの参加も増え、コロナ禍の引き続く状況下、新たな盛り上がりで朗唱の会が開催されました。

そして今年、今また第7波のコロナ禍の状況にあって、ゆるがないひるまない高岡市は、現地での万葉まつり開催の準備を着々と行っておられることと思いますが、私たちも動画朗唱での参加に向けて準備を行っているところです。

私の関わっている万葉講座の方々に、いわば無理強い的なお誘いにもなりましたが、あとで絶対に参加してよかったと思われるはず!という信念のもと、今回は宝塚のコープカルチャーの方々にも参加して頂きました。

そして昨日です。交野が原万葉学級という50名規模の講座があるのですが、私が「逢合橋」の歌碑に関わらせていただいたおかげで生まれた「講座」で、いつの間にか50名という大所帯になりました。本当にありがたいことです。その大所帯で今回全員参加で万葉朗唱に参加しようということで、山上憶良の七夕歌の長歌に挑戦しました。そして、音読でもよかったのですが、オカモの「天の川慕情」を歌おうということで、講座生ラインで、歌詞や音曲の練習をし、昨日一度きりの本番に臨みました。

練習もばっちりで、まさかの出来栄えに感心しましたが、いよいよの本番。曲に合わせて全員がしっかり歌ってくださり、一緒に参加しつつその様子を見守っていました。途中だんだん胸が熱くなってきて、私の曲を講座生が全員で合唱してくださるなんて夢のような機会に恵まれたこと、本当に感動しました。うたがたりのメンバーでさえ、オカモの曲はむづかしいと言われることもあるのに、誰一人反対もなく、全員参加してくださったことに、私はなんて幸せ者なんだろうとしみじみ思ったことでした。この様子が高岡万葉朗唱のユーチューブに残ります。私の宝物の映像が残ることに喜びと感謝でいっぱいです。みなさん、ありがとうございました。

新潟県五泉市で万葉うたがたり

令和3年の唯一の万葉うたがたりは、今月27日に越の国へ伺います。万葉のお仲間がおられたこと、高岡市万葉歴史館の後押しがあったことなど、うたがたり会はじめての新潟県コンサートが実現することとなりました。『万葉集』では弥彦山の歌が2首あるだけの新潟県ですが、会場は五泉市の完成したばかりのラポルテ五泉です。令和に完成した市民の施設は、「生涯学習エリア(生涯学習と芸術文化の振興)」「産業振興エリア(観光と連動した産業振興)」「共用エリア(子どもの遊び場などの休憩施設)」の3つの機能を併せ持つ複合施設で、カフェもあり、市民が集う中心的な拠点のようです。

たまたま、地元で『万葉集』の指導をしておられる梅田希未さんとは長い知人で、ご遠方から私たちの万葉旅行に参加してくださったり、そこでの出会いがきっかけですが、高岡市万葉歴史館での私たちのコンサートには来て下さったり、隣県富山は近いのかもしれません。私たちに出演の打診があったのもありがたいことですが、私たちの方から新たな土地、地方へ出かけることも望外の喜びです。とは言え、遠方ゆえ往復に時間がかかり、現地ではあまりゆっくり過ごせないかもしれませんが、機会ができたことで、これからのご縁に期待をしております。

坂本信幸先生も記念講演をなさいますし、『万葉集』の歌をどのように受け止めてくださるか、ドキドキですが、昨秋の40周年記念コンサート以来のステージに、心地よい緊張です。

浜甲子園中学校のトライアルウイークに参加!

人生が長くなると、ありがたいことにいろんなことを経験する機会に恵まれる。兵庫県では「全中学生」を対象に、トライアルウイークと称して、阪神淡路大震災、酒鬼薔薇事件をきっかけに、兵庫県教育委員会が「生きる力」と「心の教育」を重視した取り組みの長期体験学習が行われてきた。私の知る限りでは、郵便局や放送局、医院や社会的組織の一員として、また施設などのボランティアや、手芸や手先の作業のグループに参加したりと多岐にわたった場面で、学校から飛び出したユニークな社会体験の機会と理解していた。

今年の初夏の頃、我が家からほど近い浜甲子園中学校の先生からご連絡を頂き、中学2年生で地元の偉人「犬養孝」さんを学ぶことになり、秋には講演してほしいというご依頼だった。私自身はうたがたり活動のみならず、万葉講座もいつのまにか定着し、時々講演のご依頼もあるが「犬養先生について話をしてほしい」という恩師を語る機会は初めてのことで、大変光栄でもあり、意気に感じた。そして昨日浜甲子園中学校の体育館で2年生80余名を前に、地元の偉人としての犬養先生の人生や足跡や、関係の万葉歌も紹介しながらあっという間の1時間が過ぎた。

ご縁を作ってくださった学年担任の山中先生が、「数ある卒業生や、浜甲子園中学校の長い歴史の中で、今年2年生となったこの子たちは、コロナ禍という特別の時期に入学し、入学式も運動場で行うという非常にイレギュラーな学生生活を強いられて、普通に行われていたトライアルウイークも行えないという状況の中、そこを逆手にとってこの子たちしかできない学習ができないかと思案した。」と言われ、その結果「犬養先生」にたどりつかれた経過も伺った。犬養先生、縁の深い明日香村、『万葉集』、西宮の万葉歌と子どもたちの事前の学びも多彩だったと思うが、私も恩師を語り始めるとあれこれ言いたいことだらけで、きっと子供たちには空回りして、あっけにとられたかもしれない。(笑) しかし、犬養先生は「運」を持っておられる。令和決定の時もそう、以後も昨年は明日香特措法40周年で回顧されたり、今年は新聞記事が出たり、今回、地元西宮で子供たちが偉人として学んでくれたり…と、本当に誇らしいことだ。当日の写真が届けば、あらためて掲載しようと思う。

山中先生、松永先生、そして浜甲子園中学校2年生の皆さん、光栄な機会をありがとうございました。

チャンスを頂きました。ラジオ放送!

5月から月2回(第2・第4週の日曜日の午後9時~10時まで)2月に開局しました大和高田市のFMヤマトからお声がけを頂きました。コロナ禍で通常のお仕事さえ、休止をせざるを得ないこの時期に、思いがけなくラジオで万葉集のお話をしてほしい・・・とのこと。びっくり致しました。私???
『万葉集』をテーマに「いにしへ人の心をメロディに乗せて」私の作曲した万葉歌の音曲を聴いていただきながら、万葉歌のご説明をしたり、万葉人の世界や真情をご紹介する番組です。番組は私の万葉うたがたりのテーマソングとしております「サンバDEツバキ」という曲で始まります。この歌が『万葉集』?と固定概念を覆すようなリズミカルで楽しく明るい曲なので、やっぱり今回もオープニング曲に決めました。
そして、FMヤマトのご案内には、次のように記していますので抜粋します。。
私は大学で万葉学者、故犬養孝先生と出会ったことがきっかけで、先生の語られる万葉集のお話が新鮮で楽しくてとても興味深い授業であったことから、以来『万葉集』が大好きになりました。「万葉風土学」として学問のジャンルにまで押し上げられた犬養先生と共に、大和はもちろん日本全国に広がる歌の故地を訪ねました。また、古代歌謡は謡われていたということで、先生と共に故地に立つと、犬養先生のオリジナルメロディ「犬養節」に唱和しながら、万葉歌をみんなで高らかに詠うことが「万葉を歌う」1つのスタイルとして定着していきました。
『万葉集』を楽しむ魅力の引き出しは様々あり、故地のウオークはもちろんのこと、写真を撮ったり、万葉の植物を育てたり、また書道の素材となったり、絵画に表現する等など個々に楽しみ方がいろいろある中で、私はオリジナルな作曲を通して万葉歌のドラマを作ることが楽しくなりました。独りよがりの楽しみが、みなさんに聞いていただくようになり、そして歌うときにきままなおしゃべりも添えて・・・というのが万葉うたがたりの出発でした。
ラジオで語るというのは、本当に初めての経験で、ラジオの向こうで「耳を傾けてくださる方々」にうまく思いをお伝えできるかどうかとても不安です。ただ、私自身は大好きな『万葉集』のお話をしているときはとっても楽しくて幸せなひとときですので、学生時代に受けたあの時の楽しさを一人でも多くの方にも体験して頂きたいのです。万葉の世界を知って頂きたい、万葉人の心に共感してほしい、日本人の心情に触れてほしいというのが私の思いです。番組では万葉歌と私のオリジナル曲のご紹介を中心に、雑談もあり(雑談の方が多いかも)どこかで本題から脱線することも多いのですが、それが岡本三千代の万葉うたがたりです。ぜひ楽しんで頂きたいです。5月から始まってはや8回終了。次回は9月12日です。スマホで聴いていただくには、全国ネットのFMプラプラのアプリを取り込んで頂き、そこからFMヤマトのサイトを選んでくださいね。時間は夜9時からで、スタジオの周辺の様子はよくわからないのですが、春には桜が見どころの高田川の傍です。
どうぞよろしくお願いいたします。

白い花、みいつけた!

2年前の今頃、久しぶりに犬養万葉記念館主催の万葉野外植物講座に参加した。半日飛鳥をめぐって馬場さんが「5月は白い花が多いですね」と言われたように、そのときの印象がずっと頭に残っていて、以来私の講座のキャッチフレーズにも「5月は白い花」というテーマでいろんな機会にお話をさせて頂いている。そして私が制作している万葉花カレンダーも意識して今年は5月にうまら、6月にていかかずら(いはつな)を配した。6月の講座ではていかかずら=いはつなを紹介する。
先日、FBでカミングアウトしたが、整形外科へのリハビリはいまだに続いており、相変わらず毎回違う道を自転車で散策しながら通院するのはなかなか楽しい時間でもある。そして、そして見つけたのだ! すごい迫力のていかかずら屋敷を!!! お花に出会ってから病院との往復に何度か行き来するうちにどうしても写真に収めたくなり、花の盛りも時を重ねて変化していく。私は意を決して昨日、ピンポ~ンと初めてのお宅に伺い、インターホン越しに「どなたですか?」「怪しいものです」との吉本新喜劇のようなやり取りで、恐る恐る出てこられたご婦人に「すごい迫力のていかかづらですね、あまりに素晴らしいので写真を撮らせて頂いてもいいですか? 私は万葉集講座で来月この花の歌を取り上げますので・・・」と申し上げると、快諾してくださっただけではなく思いがけない言葉が・・・。「万葉集といえば私、教養学部で犬養先生のお話を伺ったことがありますのよ。」と犬養先生のお名前が出たのだ。ご婦人は大阪大学の卒業生。そしてお年ごろからすると、私より上であろうと思われるので、阪大マドンナ時代かも。しかしこんな身近なところにも犬養先生のご縁があったなんて。感慨に浸りながら写真を数枚とらせていただいた。(私の停めた自転車も、不覚!)

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そして、もう一つのアカデミックなステイホームをご紹介すると、
講座のグループ、交野万葉学級は大所帯であるが、会員がライン登録でまとまっていて、連絡や情報共有が大変有効に活用されている。私の個人的趣味、興味で、「白い花見つけたプロジェクト」と称して、みなさんの自宅、お庭、公園、身近な場所で「白い花」を見つけたら共有ラインでアップしましょうということで、現在「和、洋、雑草」問わず白い花を見つけてはアップするという楽しい試みを始めている。会員の皆さんも「目的」を持って歩くことと、積極的に楽しく「白い花を探す」ことの意義ある日々を送って頂いている。普段何気なく見ているものも「意識する」ことも大事だろうし、白い花たちも私たちに競って存在感を示しくくれることだろう。交野万葉学級のステイホームは素敵です!!!

 

今月の講座はすべて中止になりました。残念!

「来年は!」と希望を託した2021年も年初からコロナ感染が収まるどころか、ますます重症者が増えて日々不安なことです。

12日の午前9時から西宮市ではコロナワクチンの申し込みが始まりました。接種が「かかりつけ医」でできるということで、ありがたいのですが、申し込みの電話はかからないわ、かけ続けて午後12時過ぎにかかったと思ったら500名に達したので受付終了しました、と断られました。さて、次どうするか。前途多難です。

さて、緊急事態宣言の連休明けには5月の万葉講座も実施できるだろうと思っていましたが、残念ながら状況は改善されず、講座も不要不急のものではありますので、危険を冒してまでも来て頂くわけにはいきません。すべて主催者の判断により、16日の明日香村をはじめ、今月の講座はすべて休講となりました。『万葉集』を学ぶ機会というより、お仲間と過ごす貴重な時間がなくなることが私にとってはもっとも残念なことです。

みなさま、来月は笑顔でお目にかかれますように・・・。くれぐれも感染されることのありませんようにお祈りしております。

リハビリ1か月。

頂いた入浴剤! ありがたや。自宅で湯治!?

もともと健康に自信のあるものは「過信」が厄介。加齢や運動不足や肥満や(私のこと)状況は変化しているのに「体力」「腕力」「持久力」などが変化していないわけはない。機械だって経年劣化や、部品の交換や、定期的なメンテナンスが必要だ。ところが・・・だ。

昨年来、私の身の回りでは次々かたづけごとがおこり、自分では無理はしていないはずだったが、ひたすらの作業は時間的制約、感情的ストレス、そして肉体的限界により、このコロナ禍の非常時であるにもかかわらず、昨年末ごろから体調が悪く、いろいろ医療機関を訪ねる機会が多くなった。内科的なことは予約診療ですむが、この度は4月4日の明日香村での講談の会の帰り道から左足に急激な痛みが走り、地面に足がつくたびに痛み、引きずってしか歩けないような状態になってしまった。ごく直前まで私の車で重量のある大きな荷物や書物を西宮から犬養万葉記念館に運び、それをひたすら運び入れたことが遠因であるように思う。痛くて痛くて歩けず、数日後地元の整形外科の診察を受けた。特別の原因はなかったようだが、強いて言えば血流のめぐりが悪いのか、また腰椎の老化が考えられるということで、その日から腰の牽引と電気治療とのリハビリが始まった。

幸いにも今は甲子園で父と二人暮らしで、またコロナ禍の自粛要請期間で私の仕事を含めた外出が制限されているので、いつもよりは時間に余裕があり、継続を要すリハビリに通院するには恵まれた時間だった。

そしてほぼ1か月ほど経過して、ほとんど痛みも取れ、普通に歩けるようになった。だから、今だから話せること・・・。(笑)

私は気楽な性格で(自覚も十分あり)、リハビリも楽しく通えた。自宅から10分ほどの距離を歩くのがつらく難儀なので、自転車で行く。そして毎回違う道を走ってみた。甲子園に住んでいても通勤路や買い物動線など同じ道しか通らない日常を送っているが、1本違う道筋は町や家並みの様子も違い、毎日新たな発見があった。また、リハビリ中、患者さんの観察も興味深いが、この頃のリハビリの医療器具は治療後、音楽で終了を知らせる。機械と共にメロディーも何種類あるんだろうと数えてみると、私の20分ほどのリハビリ時間中にも最高で5種類もの旋律を聞くことができた。面白いやん。仕事柄、それが聴音として音名で聞こえてくるのだ。そして「楽しく」通院する間に約1か月ほど経ったが、効果が表れてきたようで良かったが、私は「リハビリタイム・ちょっと散歩」が楽しくて、もう少し続けてみようと思っている。毎回340円なり・・・。

 

89歳の誕生日に想う。

昨年の米寿の誕生日が最期の母のお祝い日となったが、子供、孫たちの生活リズムが合わないことを口実にみんなが集合して母との食事会すらできなかったことを申し訳なく思っていた。「米寿」という節目でもあったのに・・・。昨年は3月16日が月曜日だったので、たまたま土日を連泊した私に「私の誕生日だから2日も続けて泊まってくれたのね」と嬉しそうに母が言った一言がずっと心に刺さっていた。明日香と実家と行き来の生活で、老々介護の両親に頼られてからは律儀に3日に一度、1泊ずつの間隔で過ごしてきた。偶然の連泊がそんなにうれしかったのかと思うと、確かに実家へ帰ってきたときは夕食をして翌日の夜にまた帰る間の時間は、一緒に病院へ診察に行ったり、買い物に行ったり、美容院へ行ったり、目的があって、そのために帰宅していたようなものだった。母と自由に会話したりショッピングをしたり、二人で過ごす時間の余裕が全くなかったことが悔やまれてならない。そして私は2年前から両親には約束通り犬養万葉記念館とは縁が切れたと嘘をついていたのだ。ただ元号「令和」『万葉集』の注目で、やむなく忙しくなったのであろうと、両親ともに私を頼ることについてのあきらめの思いも少しあったように思う。そして、1年前から母のラストステージが始まっていたことを今になって気づくなんて。

今日、いろんなことを考えるうちに、落ち着かず、久しぶりに母の書斎机を整理した。「はなひな日誌」ファイルを見つけ、毎年の予防注射の接種証明書がきちんとファイリングされていた最後に、またまた母のメッセージを見つけた。「お父さんと猫をよろしくね」とは常々言われていたが、それに加えて、最後の3行に涙した。「二匹を最期までお願いします。お骨は少しだけ甲山墓地に埋め、残りはのんちゃんと一緒に家の祭壇に置いてください。」・・・と。そして、なんと母が2009年に産経新聞に投稿していた記事が残されていた。それで、はなひなが2008年夏生まれであることが再確認できた。おー、12歳半じゃん!(かなりの熟年猫になってました)

母と猫の絆は前回、湿布薬の反応で驚いたが、私にはずっとなつかなかった猫たちが「毎日顔を合わせ、食べ物を準備し、トイレをきれいにしてくれる」ことを理解したのかどうか・・・はわからないが、もう私を引っかいたり、噛んだりすることはなくなったので、ようやく「家族の仲間だ」ということに気づいたのだろうか。仲良く毎日を過ごせるようになったように思う。

はなひなを見ながら、この子たちもいつかどちらかが先に逝き、1匹になった時の不憫はあまりにつらいものがある。でも寿命も私といい勝負かもしれないな。母の亡き後、今の私のいやしは「はなひな」であり、また母を偲ぶ切ない存在でもある。

昨年はどさくさで予防接種には行けなかった。爪も切ってやらなきゃな。猫を飼いたかった母の願いに「飼いたければ飼ったらいいやん」といった手前、約束通りはなひなは任せてね!お母さん。