おめでとう! 

先日、父が卒寿の佳き日を迎えました。健康で、また母とともに夫婦で穏やかに過ごせる日々をありがたく思います。
今はすっかり悠々自適の日々ですが、外出も減り、交流も少なくなってる中、唯一「囲碁」だけは趣味としてこだわりがあるようで、やや足に自信がなくなってきたにも関わらず、「囲碁」に出かける日は雨が降っても台風が来てもなんのそののようです。それくらい好きなことがあることが不思議なくらい・・・。
今年は記念すべきバースデーだったはずですが、甥っ子の第2子誕生後で、弟家族は落ち着かず、私も娘も仕事があり・・・と、当日電話で「おめでとう」と伝えることしかできなかったのですが、娘の配慮で遅ればせにささやかな会食と「お祝い」をすることができました。
両親には孫が3人ですが、特に「初孫」が、娘の子であること(笑)と、一緒に暮らして成長を見ていたことから、娘のつかさがかわいくてならないようです。そのつかさが帰宅して一緒に会食し、ハッピーバースデーを歌い、ケーキでお祝いできたので「かずじい」は大満足のようでした。よかった!
父が「90歳」なんて信じられないのですが、娘も今年「40歳」・・・。そうだ、50歳でおじいちゃんになったんだ!若い!なんて思い出しながら、時の流れに感慨を覚えたことでした。来年もそろってお祝いしようね!
おめでとうございます!!!

菊の香に寄せる感謝♡

2014年の秋から明日香村にある恩師を顕彰した記念館、犬養万葉記念館の指定管理者となって丸4年が経った。4月の2期目からはお引き受けする条件として、記念館での勤務については自由にということで、老両親が心だよりにしていることもあり、館長講座やイベント日などに限り行き来しているのが現状だ。2期目になり、スタッフたちの努力のおかげもあり、記念館の日常が軌道に乗ってきたことは大変ありがたいことだ。
2014年の秋、あわただしくスタートした時から犬養万葉記念館に素晴らしい菊の花をご提供頂き、入館してくださった方々を楽しませてくださったが、以来毎年必ず季節になると声をかけてくださる河合幸子さん。あつかましい私は「ぜひおかせてください」とおねだりし、1期期間中の3年間毎年丹精して育てられた菊の花を楽しませていただいた。そして4年目の今日、記念館に再び菊の花を届けてくださったが、「先生、明日香で菊の花を作る人が、もう3人になってしまいました。高松塚で開催していた展示会ももう無くなりました。」とのこと。「1本ずつ命名された菊の花」を育て上げることの大変さは、時間と労力と愛情の賜物だ。高齢化も一因であると思うが、4月から選定し、挿し木をし、1本菊にするための支えや、手入れ、手間も大変なようだ。それでもその努力がまさに「開花」したときの喜びは一入なのだと想像に難くない。


そして今日、明日香村公民館で講座があり、到着すると玄関先にも立派な菊の花が飾ってあった。やはりほとんどが河合さんの作品だった。
犬養万葉記念館では、門前と会館入り口と、室内と分けて置かせていただいている。河合さんが手塩にかけられた菊の花を私たちだけではなく、来館してくださった方が喜んでくださるだろう。「菊のご紋章」ではないが、日本人に身近な菊の花も年々見る機会が少なくなってきた。風物詩のように各地で見られた菊人形も、限られた場所でしか開催されなくなってきた。芸術的に菊を操る「菊師」が居なくなったからとも聞く。ヘタすれば「お葬式の花」の認識になりかねない。
「私、菊の花が一番好きですねん。香りもいいし・・・」と、おっしゃった河合さんの言葉が忘れられないのだ。咲くと華やかで格調も高くあるが、特別に目立つ花ではなくどこか謙虚で控えめな感じ。これは大いにご本人と通ずるところがあるような気がする。今日から菊の花によって彩られた記念館で、訪問された方々にも「秋の季節」を堪能していただきたいものだ。

オームの思い出。

オーム真理教の凶悪犯罪に対して、死刑宣告を受けた半分の罪人が本日死刑執行された。

24年という歳月は、私たち阪神淡路大震災で被災したものにとっては、忘れられない時間だ。平成7年1月17日に震災が起こった。すべての報道が地震1色だったが、3月20日に地下鉄サリン事件が起こってからは、阪神淡路大震災の報道は水面下のものとなってしまい、国民の話題、注目がすっかり震災報道から切り替わったことを鮮明に覚えている。被災者の私たちはオーム事件のことよりも日々の生活に追われたが、サリン事件によって国民の関心があっという間に移っていった。その後、東日本でも熊本でも「ずっと忘れてはならない!」という呼びかけのフレーズが叫ばれるように、まさに新たな事件・話題がおこるたびに悲しいかな、人々の心はそちらへ誘導されてしまうのだ。

さて、犬養先生が被災されて、翌日の100基目の高松塚の歌碑除幕騒動のあと、1か月間橿原ロイヤルホテルで過ごされ、その後武庫川団地の阪大教え子のマンションに仮住まいされた。そして数か月たって、久寿川の家を建て直すまでどうぞ・・・と宝塚の仁川にあるやはり教え子の方の建てられた1軒家を借りて、住まわれた。そこでは最低限の生活で、犬養先生は何もすることがなくて(できなくて)、1日中テレビの前で過ごしておられた。阪大生が冗談で持ち込んだオーム真理教の雑誌が何冊かあり、熱心に読んでおられた。そして連日サリン事件後のテレビ報道を見ながら犬養先生の記憶力のすごさというか、なんと麻原率いる幹部や、インタビューなどに応える信者たちの「ホーリーネーム」をすっかり覚えておられたのだ。一緒にテレビを見ていた私に「あの人は・・・って言うんだよ!」と得意げに次々と教えてくださったときは、本当に犬養先生の好奇心と記憶力に驚いた。(ちょっと楽しそうだった) 仕事どころか、なにもできない環境にあって1日中椅子に座って無為に過ごされる姿が気になっていただけに、この衝撃的なオームの話題は犬養先生の連日の関心事となっていた。私だけが知っているエピソードかも???(笑)

あれから24年。阪神淡路震災もオーム真理教も地下鉄サリン事件もまったく知らない若者が増えていると聞く。ならば、70年以上前の太平洋戦争などは若者にとってもはや風化してしまってるのだろうか。それも恐ろしいことだ。