まだまだ踏破できない「犬養山」!!


「昼下がり通信」雑感その2. 私のきまぐれで3年ぶりに投函したにも関わらず、直後にメール、電話、そしてお便りと大変多くの方々からお返事を頂きました。一方通行でもともかく発信することにこだわったのですが、私のささやかな気持ちは宛名だけは「手書き」にしたことでした。返信は、私とのお付き合いの中での関係やお人柄を改めて知る機会ともなり、私にとって幸せなプレゼントとなりました。
この閉塞した時期であったことで、「手紙」「便り」が届くというアナログなことが、結果的に良かったとも言えそうです。
犬養先生は毎日毎日、数通の手紙、はがき、その他寄贈本など、郵便物が絶えない日常でした。しかし帰宅されるなり着物に着替え、郵便物に目を通し、寄贈本でも夕食までに斜め読みなさいます。そして「その日のうちに」お返事を書かれるのです。すべての人に・・・。
 昨年末、三重県松坂市で80年前の犬養先生の書簡が多数発見されました。お相手は田邉幸雄さんとおっしゃる万葉学者でした。取材の朝日新聞社の記者は開口一番「犬養先生はお手紙を書かれる方ですか?」と聞かれ、私は「はい、マメに書かれました」と即答し、一瞬記者が発見された書簡の値打ちに絶望感を抱かれたかもしれません。(笑) それくらい日常的に犬養先生が人間関係を大事にし、礼を重んじられたお人柄がよくわかります。多い時には犬養先生に年賀状が4000枚も届きましたが、2月末までかかってすべての方にお返事を書かれました。多くの犬養ファンがそれぞれに「犬養先生から頂いたはがき、手紙」を宝物として大事にされていることをよく伺います。その様子を私はずっと傍で見てきました。そして、その時から絶対に見習おうと決めて今日まで来てしまいました。急ぎの返信でない限り、先送りしたり、出しそびれたり・・・。私はだめだ。犬養先生のように毎日郵便物が届くわけでもなく、「相手に届いたことを伝える」それだけのことが、先生が亡くなられて20年以上経っても、いまだにまだ私はできていません。わかっているのに・・・。家族は毎年「自ら年賀状も出さずによく皆さんが三千代に出してださることだ」と感心していますが本当にその通りです。
余談ですが、犬養先生はお中元、お歳暮の令状も自ら書かれていました。帰宅されて「おかもちゃん、誰から何が届いてるか教えて・・・」といつものように座卓にスタンバイ。私が「ディオールの靴下が3足です」とか、「一保堂のお茶です」と伝えると、はがきにもそのまま、「このたびはディオールの靴下をお送りくださいまして・・・」とか、「一保堂のお茶をありがとうございました」とか、伝えたそのまま品物の中身も書いてしまわれるので、「先生、そんな具体的に書かなくても・・・」と言ったことがありますが、今から思えば、送り主は中身についても「正しく届いたこと」を知られたわけですし、結果良し??? 本当に可愛げのある先生でした。そんな先生の傍で学ばせて頂いたことはいっぱいあり、できるだけ実践しているつもりですが、唯一「相手に返信する」「感謝を伝える」ことの習慣がいまだできてない、できない私です。ずっとずっと心の奥底に感じている呵責です。
 もう一つの便りの余談は自慢話。犬養先生は私が卒業してもダジャレばかりのもあれば、旅行の仲間たちとの寄せ書きだったり、折に触れお便りをくださいました。写真はステイホームで整理していた時に出てきたはがき。ハワイからの便りです。実はその時のお土産のムームーもあり、着古しましたが今も処分できないで、衣替えのたびに出してはしまって・・・を繰り返しています。もう何年繰り返しているでしょうか。
 このたびは3年ぶりの通信で、新たな方への自己紹介となったり、旧交を温めたり、また亡くなられたり、高齢で施設に入っておられたり、転居も含めていくつかの音信不通にあい、後悔の念もありました。自分で文を書く、宛名がかける間に、大好きな人たちとのやりとりを自発的にしていきたいものです。できれば、パソコンではなく手書きでできたら・・・。
犬養山、頂上はまだまだ高く険しいです!!!
メルカリ出品のようでした。(笑)
 

Happy birthday dear  先生💛     

4月1日からの福井県越前市「万葉の里」の越前市万葉館の交流展展示のために、前日から北陸路へ。桜の季節の移動は、明日香村から快適なドライブとなりました。越前市の万葉故地は平成17年の市町村合併までは、武生市でした。犬養先生は万葉風土研究で何度も現地を訪れておられ、著書『万葉の旅』でも紹介しておられますが、味真野地区は『万葉集』巻15の中臣宅守と狭野弟上娘子の贈答歌63首によって、注目される場所となりました。昭和55年には当時の笠原武生市長の要請で、味真野苑という庭園整備と共に、小高い比翼の丘を作り、その頂上にお互いが向き合う形で、2基の万葉歌碑が建立されました。地元貢献の恩人である犬養孝先生が宅守、娘子の代表的な歌を揮毫され、庭園のシンボルとして各地からも万葉ファンが訪れる名所となりました。昨年の4月1日は新元号「令和」の発表があり、取材攻勢のスタート日でしたが、4月1日が犬養孝先生のお誕生日でもあるので、今年は偶然犬養先生が大事にされた味真野での第3回万葉故地交流展のスタート日となったことをうれしく思いました。

せっかくなので、比翼の丘に登り、歌碑に向かって「ハッピーバースデーdear 先生!」と大きな声で歌ってきました。先生に聞こえたかな?

日当たりのよい娘子の碑の周りには、おー、つくしがいっぱい生えていました。

宅守の歌碑のそばには満開の桜が美しく、この季節ならではの光景に感動しました。

犬養先生のご意向の「連理の松」の池には早くもシャクナゲが咲き、折しも大事に植栽されている水芭蕉も満開でした。なんとそばにかたかごの花も・・・。
味真野では初めて見ました。
 

越の国の春を満喫して帰宅しました。
不安定な情勢ですが、越前市万葉館は開館中です。交流展のテーマは「万葉の植物を味わう」ですが、皆さんが楽しんでくださり、越前の里、万葉の里の自然により親しんで頂ければ幸いです。

知らなくてイイコト!

第39回MBSラジオウオークは、コロナ感染不安で、初めてのスタジオ発信となり、アナウンサーの現地リポートで、スタジオからは猪熊先生、上野先生、西山先生のトークが交わされました。イベント中止と聞いていたので、気にも留めずいたところが、ラジオでの放送はあると知り、慌てて告知をしたり、私もパソコンを開いて(ラジコ)聞く準備をしました。コーナーに分けられていた第4部は「今までのラジオウオークを振り返る」というテーマだったので、「犬養孝先生」が話題になるだろうと楽しみにしていました。期待通り初回のオープニングや先生の朗唱、「一日の終わり」など、犬養先生のお人柄を思い起こす場面の切り取りに胸を熱くしながら聞き入りました。

犬養先生の出演は平成9年が最後となられましたが、実はその日に脳梗塞の症状が出ておられました。平成10年も出演のオファーがありましたが、犬養先生が弱っておられたので「ラジオウオークは中止になりました」とうそをついて出演を止めました。でも犬養先生はその時期が近くなると、気配を感じられたのか「ラジオウオークに行かなくてもいいの?」とお尋ねがあり、再び「中止になりました!」と言ったもののドキドキしたものでした。犬養先生のお気持ちも察して、3月になってから、「先生、明日香村へ行きましょう!」と私と二人きりで、愛子さんにお弁当を作って頂き、車いすを押して明日香村へ行ったことが、先生の明日香行の最後となられました。この日のことは私も何度か文章にも書いていますが、この写真がそのときのものです。出会ったのはお訪ねした関村長と川原寺の先代の扇谷夫人。誰がシャッターを押してくださったか記憶にないのですが、この写真は川原寺の犬養万葉歌碑です。背景が橘寺。今は周辺の木も伐採されてこの風情はすっかり変わりました。貴重な原風景(平成10年の)になりました。来年は第40回。15回の打ち上げを終えた時に「今回が最後と聞いてましたが、なんだか来年もあるみたいですね。」と先生と共に笑ったことが思い出されます。犬養先生がご存命の時はすべて私も参加させていただきました。付き添いが主でしたが、何度か「万葉うたがたり」で出演もさせて頂きました。放送を聞きながら、時の流れを感慨深く思い起こしています。

「令和」のたくさんの贈り物。その1

2019年が暮れようとしています。明日香村の犬養万葉記念館も仕事納めとなった12月28日の今日、朝日新聞の夕刊に犬養孝先生の記事が掲載されました。平成の御代から新たな時代となった「令和」は、犬養先生が亡くなられて20年以上も経っており、犬養先生の没後建設された犬養万葉記念館も時を経て、「レジェンドの万葉学者、犬養孝」を伝えるために今はやむなく?!私が指定管理者として関わることとなった経緯もありますが、学習院の学生時代に修学旅行で飛鳥を訪問された浩宮徳仁皇太子を犬養先生がご案内されたことは有名ですが、その浩宮さまが新たな天皇として即位された新元号が『万葉集』から選ばれたこと、発表が4月1日の犬養先生のお誕生日だったこと、昭和39年発行の『万葉の旅』全3巻の下巻九州編の「梅花の宴」の1ページにまとめられたエッセイにはすでに「初春令月 気淑風和」の抜粋があり・・・と関連の連鎖が続きました。その後、5月からの令和時代となって「万葉ブーム」がおこり、『万葉集』に注目が集まりました。取材で犬養万葉記念館や館長の岡本が紹介されましたので、私もいくつかお話をさせて頂く機会を頂きました。しかし、秋には平凡社からの依頼で、「犬養孝と歩く万葉の旅」という新たな本が出版され、西宮市からは「レジェンドの万葉学者犬養孝を語る」というラジオ番組(さくらFM)で犬養先生を取り上げて頂きました。そして思いがけなく1月3日には全国放送のTBSラジオの朝の番組で壇れいさんのコーナーで犬養先生を紹介してくださるということで、打ち合わせも終わった年末、朝日新聞のスクープ記事です。犬養先生のたましひは不滅であることをまさに実感させられた思いです。(12月28日記)

 

 

三井楽万葉フォーラムを終えて♪

台風シーズンのさなか計画された行事でしたが、「万葉西の果て」故地を広められた犬養先生の守りがあったのでしょう。天候を心配することもなく、無事盛会裏に終えられたことを心からうれしく思いました。
『万葉の旅』執筆から60年。白良らが浜に万葉歌碑が建立されて30年。そして平成の時代もいよいよ30年で終了という節目の時に1年がかりで準備されたフォーラムは、


三井楽町も五島市の1つとなり、夏には五島列島が潜伏キリシタンの世界遺産のエリアとして新たな魅力が加わりました。遣唐使の日本最後の寄港地として柏崎公園の弘法大師の命を賭した「辞本涯」の碑や、遣唐使の母の万葉歌碑など三井楽独自の歴史的発信。また『万葉集』の本文ではなく左注に出てくる山上憶良の「荒雄」の歌による犬養先生揮毫万葉歌碑建立などで万葉ファンの誘致などに努力された「遺産」をもう一度見直すべく催されたものでした。そして主催の三井楽町の方々は、まず地元民の認識と誇りを促すことも1つの目的としたい旨、日めくり万葉集で万葉の蘊蓄も深い女優の壇ふみさんがゲストで出演されました。

また、私はパネルディスカッションのパネラーとしてはじめて参加させていただきましたが、テーマが「五島列島と古代文学」ということでしたので、場違いの選抜かと思いました。犬養万葉記念館館長としての肩書でしたので、犬養孝先生が万葉故地「みいらく」を有名になさった功績から、自己紹介で私も存じ上げている町づくりの流れと感想を述べさせて頂き、エールを送らせていただきました。残念だったことは、今回フォーラムに協力、後援もしておられた瀬戸内海文化を考える会・龍短歌会の小見山輝代表が7月に逝去され、ご出演がかなわなかったことでした。豪放磊落で、博識で、人間味あふれる小見山先生がいらっしゃらなかったことは本当に寂しかったです。また、初めてお目にかかった野口市太郎五島市長は、終始ホストに徹してくださり、いろいろお気遣いをいただきました。三井楽=五島市のため・・・というお気持ちは十分に伝わりました。今後市長さまにはよりご理解を深めていただきたいものです。

最後に、私たちもコンサートをさせていただきました。3年前、岡本三千代サンクスコンサートとして押しかけコンサートをさせて頂き、再びチャンスを頂くなんて夢のようでした。新生うたがたり会のメンバーで30分のステージでしたが、私もこだわりのおかもワールドのプログラムをと、メインの「荒雄物語」に、「遣唐使の母の歌」、遣唐使賛歌「海のシルクロード」を地元作曲のものと、私のオリジナルのメドレー、また潜伏キリシタンの里であり私もカトリック信者ですので「アヴェマリア」、大好きなユーミンが近くの奈留島の高校のために作った準校歌「瞳を閉じて」を演奏しました。アヴェマリアを独唱した上未歩さんは、「声楽家としてこの地でアヴェマリアを歌えることの幸せ、冥利!」と言ってくれました。よかった。

実行委員長をされた谷川さん、お疲れ様でした。準備、設営された三井楽町(五島支所)の役場の皆さん本当にありがとうございました。目的である、地元の方々にどれだけ発信が届いたことでしょう。そして、私たちは「三井楽町」の存在や、長いみなさんの努力を語り継ぐことが今後のミッションだと理解しております。偶然とはいえ、犬養先生の没後20年に開かれたことを強く意識して、これからも三井楽を愛し、見守り続けていたいと強く思いました!!!

あれから、はや20年・・・。

平成十年夏、まほろばの会などで黛敏郎さんや犬養先生とともに講演活動を行ったり、公私ともに親しくされていた高田好胤さんが逝去された。横浜一中(神中)時代の教え子だった黛さんを前年に見送られた上、すでに心身ともに弱っておられた犬養先生がよりショックを受けられるのでは・・・と話題にするどころか、私たちは翌日の朝刊も隠して何事もなかったかのように時をやり過ごした。 ・・・つもりだったが、一ヶ月以上も経ってから「好胤さんも亡くなってしまったね」とポツンとおっしゃったのを聞いて、驚くよりより先生の悲しみの深さを知った。
その秋、入・退院されたり、自宅でもベッドの生活となられた。先生の体調が日々不安定な中、例年ならば私は犬養先生に随行して出かける富山県高岡市の万葉まつりだったが、一人で参加することとなった。出発前日に病床の犬養先生を訪ね、耳元で出かけることを伝えて心を残しての出立だったが、あとで家人の方が、亡くなられる直前まで「今、オカモが高岡に行ってますよ」との呼びかけに反応されたと聞いた。きっと最後まで心は万葉故地に向いておられたのだろう。忘れもしない、万葉まつりの二日目の午後一時半、私は高岡市万葉歴史館の屋上庭園で犬養先生の「立山の賦」の歌碑を見ていた。犬養邸から着信が入り万事休す。犬養門下では示し合わせて万葉まつりが終るまで公表しないことで平静を保っていたが、夜の「故地交流会」の会食中に、訃報を知られた中西進先生が公表され、会場中に重苦しい空気が流れた。私は万葉まつりが終わるなり帰宅し犬養先生と対面した。熊本五高の浴衣姿で床についておられた先生に、最後の最期まで付き添えなかったことを思うと今でも残念でならないが、私が高岡に行ったことを先生は喜んでくださっていたのだと信じている。そして、通夜の日、十月五日はなんと明日香村では中秋の観月会の日だった。教え子の何人かは、先生とのお別れは飛鳥で・・・と通夜・葬儀には参列せずに飛鳥で月を臨みながら犬養先生を偲ばれた。あまりにドラマチックだったが、犬養先生を送り、偲ぶにはもっともふさわしいような気がした。
昨日は、平成30年10月3日。ご自宅でもお祀りなさっていた。私たちの犬養先生は永遠です・・・。

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オームの思い出。

オーム真理教の凶悪犯罪に対して、死刑宣告を受けた半分の罪人が本日死刑執行された。

24年という歳月は、私たち阪神淡路大震災で被災したものにとっては、忘れられない時間だ。平成7年1月17日に震災が起こった。すべての報道が地震1色だったが、3月20日に地下鉄サリン事件が起こってからは、阪神淡路大震災の報道は水面下のものとなってしまい、国民の話題、注目がすっかり震災報道から切り替わったことを鮮明に覚えている。被災者の私たちはオーム事件のことよりも日々の生活に追われたが、サリン事件によって国民の関心があっという間に移っていった。その後、東日本でも熊本でも「ずっと忘れてはならない!」という呼びかけのフレーズが叫ばれるように、まさに新たな事件・話題がおこるたびに悲しいかな、人々の心はそちらへ誘導されてしまうのだ。

さて、犬養先生が被災されて、翌日の100基目の高松塚の歌碑除幕騒動のあと、1か月間橿原ロイヤルホテルで過ごされ、その後武庫川団地の阪大教え子のマンションに仮住まいされた。そして数か月たって、久寿川の家を建て直すまでどうぞ・・・と宝塚の仁川にあるやはり教え子の方の建てられた1軒家を借りて、住まわれた。そこでは最低限の生活で、犬養先生は何もすることがなくて(できなくて)、1日中テレビの前で過ごしておられた。阪大生が冗談で持ち込んだオーム真理教の雑誌が何冊かあり、熱心に読んでおられた。そして連日サリン事件後のテレビ報道を見ながら犬養先生の記憶力のすごさというか、なんと麻原率いる幹部や、インタビューなどに応える信者たちの「ホーリーネーム」をすっかり覚えておられたのだ。一緒にテレビを見ていた私に「あの人は・・・って言うんだよ!」と得意げに次々と教えてくださったときは、本当に犬養先生の好奇心と記憶力に驚いた。(ちょっと楽しそうだった) 仕事どころか、なにもできない環境にあって1日中椅子に座って無為に過ごされる姿が気になっていただけに、この衝撃的なオームの話題は犬養先生の連日の関心事となっていた。私だけが知っているエピソードかも???(笑)

あれから24年。阪神淡路震災もオーム真理教も地下鉄サリン事件もまったく知らない若者が増えていると聞く。ならば、70年以上前の太平洋戦争などは若者にとってもはや風化してしまってるのだろうか。それも恐ろしいことだ。

中谷 一先生を偲ぶ。

中谷
直接訃報をお聞きしていなかったので、この場を借りてお悔やみ申し上げたいと思います。大阪高等学校の時の教え子として、犬養先生とは長いお付き合いでした。旧制高校の名物「寮歌」がお好きで、万葉旅行中でも犬養先生もご一緒に歌われましたので、犬養先生の母校熊本五高の「武夫原頭に草萌えて」や、「大阪高等学校全寮歌」は今でも私は何となく歌えます。これは中谷先生のご参加の賜物と思います。眼科の専門でいらっしゃいましたので、犬養先生が80歳前後でご高齢でしたが「白内障」の手術を受けられました。その時の執刀医でもいらっしゃいました。犬養先生が大好きで、大好きで、ご自身の亡くなられる直前まで、お年始・奥様のご命日には訪問されていました。もちろん先生が亡くなられてからは、先生のご命日にも必ずお参りくださっていました。何か思われるところがあるのか、犬養先生以外の方の主催の会や除幕式・旅行には犬養先生が同行されても一切参加されず、阪大関係のみのお付き合いでした。また、犬養万葉顕彰会の2代目会長、扇野聖史さんが任期半ばで逝去された後、尾木さんの指名で中谷先生が3代目の会長となられました。その間、犬養先生のXdayや犬養万葉記念館の建設計画の再浮上したむずかしい時期を迎えられ、中谷先生と顕彰会の役員との協議がうまくいかないことがたびたびあり、早々に辞められました。その後を引き継いだのが第4代の女性会長の私ということになります。今、思い返しても「犬養先生との絆」は太く強いものだったと思いますが、みんなで交わって犬養先生を盛り立てていくタイプではなく、個人でずっと慕い続けてこられたそのスタイルこそが、中谷先生のお人柄だったのではと思います。医師の参加で、犬養先生も頼っておられたと思いますし、万葉旅行はとても安心でした。ビールが大好きで、潮岬で万葉旅行の世話役委員との交流会では浴びるほど飲まれる豪傑でした。亡くなられたのは残念ですが、大好きな犬養先生のもとへまた一人旅立っていかれました。私は、学生時代からのご縁でしたが、顕彰会での確執から、その後、犬養万葉記念館行事や、生誕100年祭や、命日祭など行事には一切参加してくださいませんでしたので、ずっと心に曇りを持ったままのお別れとなりました。仕方がないかな。ご冥福をお祈り申し上げます。

TSUBAICHI5周年!「恩師犬養先生を語る」

2009年4月10日にオープンしましたオカモサロンTSUBAICHIも、無我夢中で
過ごす毎日が、はや満5年となりました。あらためて感慨深い思いです。
万葉うたがたりの活動拠点であり、仲間の音楽活動の場でもあり、また、万葉発信地として
スタートしましたが、手探りでのサロン経営は今から思うと(今でも)本当に気楽なことでした。
今後もひたすら「楽しく」続けていけたら・・・と願うばかりです。
お祝いのお言葉だけではなく、たくさんのお祝のお品を頂戴し、重ね重ね恐縮いたしました。
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皆様ほんとうにありがとうございました。
さて5周年を記念して、2日間にわたり記念イベントを致しました。
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初日の12日(土)は、私の大好きな犬養先生にこだわりたくて、山内英正さんと中西久幸さんに
ご講演をして頂きました。
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山内さんはサロンがオープンしてから、何回か「炉辺談義シリーズ」として、犬養先生のお話を
して頂いていました。今回は5回目。そして山内さんも甲陽学院を定年退職されたので、お話を
して頂くだけでなく、山内さんの「労いの会」も催したくて、懇親会には名物のTSUBAICHI宴会部が
出動いたしました(笑)。
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もう一人の講師、中西久幸さんはサロンでも和歌文学講座シリーズの講師をはじめ、蓄音機カフェの
案内人であり、サロン立ち上げのときからお世話様になっている恩人です。そして中西さんの
「犬養万葉かるた」の分析や、私たちの気づかない「犬養万葉」ファミリーの仕組みや特徴をよく観察して
おられ、今回はぜひにとご講演をお願い致しました。
お互いが仲間うちであるので、客観的にあらためて自分たちの在り様を知ることができ、興味深い内容でした。
甘党の山内さんのスウィーツパーティーはあらためてご紹介したいと思います(笑)。
犬養先生を通じてのご縁が、清原先生の教え子の方にも広がり、万葉風土研究会の方々が多く
来てくださって犬養ー清原ー山内の万葉ネットワークも繋がり、絆を確認できたことをうれしく思いました。
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大阪近辺だけではなく、茨城、和歌山、富山、愛媛、奈良などからもご来場頂きありがとうございました。

明日香村の春

2月2日には飛鳥坐神社で、西日本の3大奇祭の一つと言われる有名な「おんだ祭」
が行われます。
神社はきっと今頃準備で大変なことでしょう。ちょっとお天気が心配ですが…。
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明日香村、大和ひいては日本の国の五穀豊穣を祈って、農耕民族の日本人の信仰と祈りの
ご神事が今も続いています。
普段は静かな境内も「福の神」にあやかりたい人々の群れでいっぱいになります。
私は毎月講座で明日香村へ伺っているので、お正月に敬意を表しにご挨拶に行ってきました。
年中咲いているという「桜」も有名ですが、やはり坐神社ではすでに桜の開花が始まって
いました。
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久しぶりの坐神社には、犬養先生揮毫の歌碑がありますが、なんと昨年2基が建立され
増えていました。
1基は、境内の階段の横に「三諸の子守歌」(オカモいわく)が…。
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もう1基は拝殿手前の桜の木の横に…。加夜奈留美神社と同じ歌?
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建立が飛鳥古京を守る会となっているのですが、この会はすでに解散して消滅した会。
今頃なんで…なんだか釈然としない感じ…。想像の域ですが、残金・浄財の還元のような
気がしてならないです…(とひとりごと)。
しかし、坐神社の見どころが増えて、大変にぎやかになりました。
そうそう、私が犬養万葉顕彰会の会長をしていた時に、会員のおひとりから申し出がありました。
それは、犬養先生と一緒に歩いた和歌山県の「糸我」の桜の枝を持ち帰り、挿し木をしたところ
植木鉢で手に負えなくなったので、明日香村の犬養先生のゆかりの場所に移植して育てて
ほしいという申し出でした。移植地に悩んでいたところ、坐神社の飛鳥弘文宮司が快く
引き受けてくださり、宮司自らの手で植え替えてくださいました。
1メートルくらいだった桜が、「糸我の桜」がこんなに大きくなっていました。
残念ながら、花は一度も咲いたことがないそうで…。どうしてかしらん???
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飛鳥坐神社の正面も整備が進み風景がより美しくなりました。
さて、明日どれくらいの方々が訪れることやら…。ニュース報道があることでしょう。
私は、サロンで加藤ヒロユキさんのラジオ番組「涙のラブレター」の公開イベントがあり、
見に行くことができません。残念!!!