古代のロマンの復元!

この写真は、昨日明日香村飛鳥の「飛鳥寺」の西門の近くで、甘樫丘を背に植樹された
「つきの木」です。
2011年の2月11日に毎日放送の万葉ラジオウオークが30周年という記念の節目を
迎えたことを記念して、この記念植樹が行われました。
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第1回から企画や、準備に携わってこられた太田兼三郎さん(元毎日放送アナウンサー)が、
ご挨拶で、30年間に亘ってずっと関わってこられて、古代や万葉時代のラジオウオークの
コースは奈良県を中心に各所尽きないけれど、何といっても「明日香」の地は特別で、古代の
万博会場と言える魅力的な場所だったのではないかと述べられました。
飛鳥寺をはじめとする寺院などのパビリオン、古代の宮に見られる池、庭。謎の石造物は
水の流れるエンターテーメント、そして中大兄・鎌足の出会ったつきの木広場…と例えられ
太田さんのこだわりの中で、万博ならば「太陽の塔」にかわるシンボルとして、そびえたつ
大きなものが欲しい…、とそれが今回の「つきの木」の植樹となったことを伺いました。
何と楽しく、遊び心満載の洒落た発想だろうと感心しました。
そもそも30年前のラジオウオークが始まる時の会議に私も参加していましたが、クリエイト
大阪社長の松田一二さんが、ソニーのウオークマンを聞きながら「故地を歩く」発想と、
福徳相互銀行重役の扇野聖史さんが自らの足で歩かれて書かれた「万葉の道」と言う本を
売り出す方法として、両者が結び付いて生まれた企画でした。それを毎日放送のラジオ局局長
の郡庸一郎さんがラジオ番組の企画として、「ラジオカルチャー」「ラジオウオーク」という
ジャンル、機会を作ってくださったことが、今日に続いているのです。
そして、われらが犬養孝先生の監修と協力なしにはできないので相談しながらスタートした
イベントでした。30年も続いたのですね。すごい!
犬養先生は、第16回まで参加されました。17回は、気にしておられたのですが、私たちで
体調を思い、無理やり出演を取りやめて頂いたので、犬養先生が気にされて、気にされて
とうとう私が、その後1週間あまり経った、2月19日に二人で明日香村へ行ったのです。
その機会が犬養先生が明日香村へ行かれた最後になりました。(追悼文『明日香風とともに』
に寄稿しています。)
飛鳥寺の西門近くのつきの木広場を再現したい…目的でもあるので、このたびの植樹の儀式は
飛鳥寺の上島副住職の読経の中、行われました。
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昨日の雨以上に、豪雨の中西宮から出てきましたが、何と植樹のセレモニーの間は雨もやみ、
私たちは何と幸運なのでしょうか。青山・猪熊・上野先生ら出演者をはじめ、毎日放送、
毎日新聞社、明日香村村長・教育長など・・・スコップでつきのきに土をかけて…。
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これは、「木」に添えられた副碑です。このたびの「思い」がつづられています。
ラジオウオークでおなじみの柏木宏之アナウンサーが司会・進行で取り仕切ってくださいました。
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上島飛鳥寺副住職の「飛鳥は聖地である。日本の「聖地」である意識が、京として古代から
今の遺跡に至るまで続いているのだ。」と力強く述べられました。
ふむ、「日本の聖地」か!
そして、毎日放送のラジオ局の局長が、1400年の飛鳥の長い歴史に、古代を彷彿とさせる
「つきの木」のあらたな歴史が、新たに加わったことの意義を述べられました。
松田さん、扇野さん、お元気だったらこのような企画はお二人がなさったことでしょう!
良かったですね。我ら万葉衆はいまも健在です。
私も「万葉」の世界を率先して楽しむ一人として、「遊び心」に満ちた楽習を続けますね。
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最後に、私も横に立ち、植樹のつきの木の「大きさ」はこれくらいです。
そうそう万葉時代のつきの木は、今の「けやき」のことです。
ラジオウオーク30回おめでとうございます。31回目のコースはさて、どこだ!

越中悠閑春秋七歳

大伴家持研究の第一人者で、高岡市万葉歴史館の二代目の館長を務められた小野寛先生が、
本当に早いもので、七年間を経て退任されることになり、その送別会にお招きを頂いた。
平成16年に駒澤大学の大学教授から、日本一の万葉集研究施設の館長に転身された時、
明日香村の犬養万葉記念館の若菜祭で「家持とホトトギス」というご講演をしてくださり、
「私は今春から高岡市万葉歴史館の館長として赴任することになりました。大変緊張して
おります…。」というご挨拶を伺ったのが、昨日のことのようだ。
それから7年。小野先生の在任中の平成17年の開館15周年を記念して、「天平万葉」の
企画展があったり、平成21年には、高岡開町400年を記念して「越中国と万葉集」の企画展
など大きな事業が行われ、また、平成19年には犬養孝先生の生誕100年祭を記念して、
企画展示や、記念講演会に稲岡耕二先生を招いてくださり、大変ありがたく嬉しかった。
加えて、小学生へ出前講演、『万葉集』を富山大学の講座科目として招致された尽力など、
精力的に仕事をこなされた密度の濃い7年を過ごされたと思う。
私は犬養先生のご存命の頃から、小野先生を存じ上げているが、寡黙でシャイな研究者と
してのイメージが強かったので、高岡市万葉歴史館でお目にかかるようになってから、
明るい笑顔で迎えて下さり、生き生きと輝いておられる先生を拝見して、びっくりしたものだ。
先生自らがサービス精神を持って「学者」から、館のリーダーとしての「社交性」を意識して
発揮されていたのだと思う。
あまりお好きでなかった万葉朗唱も、万葉まつりですすんで詠われ、楽しまれるようになった。
小野先生にはまだまだ歴史館で頑張って頂きたいと思うが、今年で21年目を迎える歴史館で、
世代交代も果たされた。そして、次期3代目を託された館長は、坂本信幸先生である。
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このたびの送別会に関西から参加したのは、坂本先生と畏れ多くも私だけだった。
そして、挨拶と「高岡旅情」を歌う機会をくださり、壇上では小野先生だけではなく、
歴代万葉3市長が揃われ、会場の皆さんで大合唱した。万葉まつりのテーマソングがこの
ように高岡で行事のたびに歌って頂ける光栄を本当に感謝している。
ありがとうございました。
ブログタイトルの「漢文」は、当日の引き出物の一つである、エッセイ集の題名。
北日本新聞の夕刊で書いてこられたコラムをまとめられた非売品!
帰りのサンダーバードで一気に読んでしまったくらい、大伴家持・家持歌をエッセンスに、
身近な視点で読者にメッセージされた文章だ。これを読んで小野先生が過ごされた高岡での
7年間の生活・体験が、越中における家持を追体験しておられるように思った。
研究者としてもよい時間を過ごされたのだなあとうらやましく感じた。
私も短時間ではあったが、やはり渋谷の崎へ・・・。潮が引いて岩や海藻が目に付いたが、
やはり立山を背景にしたこの景色は、今も私たちを惹きつける。
さて、今度はいつ高岡へ来れるかな・・・。
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交野が原の万葉歌碑

天皇誕生日の12月23日、交野の星田妙見宮の参道入り口に、万葉歌碑が建立され、
除幕式が行われました。私たちのお仲間で、万葉や歴史が大好きで、わが町「交野が原」の
七夕伝説の掘り起こしと、郷土文化の発信に尽力されている毛利信二さんが、この事業にも
協力しておられたので、楽しみにしていました。
朝方、雨もあがり、山寺さんと共に、星田神社の近く、星田妙見宮へ。
交野市は新興住宅地もあれば稲田もあり、開発途上かもしれませんが、見渡すと「交野が原」
という名前にふさわしい平野の広がりが感じられます。
3年前に交野市倉治の機物神社で、たなばたの万葉歌碑が除幕されましたが、今回こうして
新たな碑ができ、引き続き地元の方々が、がんばっておられる様子を拝見することができて、
うれしく思いました。
万葉歌は、
「織女(たなばた)の 舟漕ぎ出らし まそ鏡 清き月夜に 雲立ち渡る」
                  
(巻17-3900)大伴家持の21歳の時の歌です。ひこぼしのもとへ織姫が、船に乗って
出かけていく・・・歌は、日本の七夕歌は、男性から迎えに行く歌に趣が変化したと言われており、
中国式の発想を感じます。今日で、この周辺歌碑は5基になりました。
除幕式のあと、ご神体の星石?!(織女石)は、昔、北斗七星の3つの星が落下したその
一つという伝説の石だそうで、是非にみたいと、長い長い階段を昇り表敬してきました。
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この地域が七夕に関わる機物神社があったり、天上のロマンを思わせる星田神社、星田妙見宮
また逢合い橋や、天野川などがあります。近隣の枚方には牽牛石があったり、本当に地霊に
魂が宿るならば、このあたりは天空の里とも言うべき、ロマンチックな情緒があります。
今後は、日本に伝説をもたらした中国の行事を検証したり、日本で七夕で有名な地域との
交流や、まずは地元の誇りの文化として、毛利さんはじめ、みなさんが、楽しく関わって
おられるのを拝見して、私もうれしくなりました。
来年の七夕は、是非もう一度ここに伺いたいと思いました。除幕された歌碑は星田の森にあり、
秋の紅葉、春の桜が美しい四季折々の風情に恵まれたところのようです。
毛利さんのお心遣いで、帰りに、枚方税務大学校の「犬養歌碑」まで連れて行ってください
ました。久し振りです。「石走る…」の歌碑は、御影石で反射するので、写真に必ず人が写り
ますが、うまく「桜の木」のみのアングルで写せました。
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万葉のお仲間が集い、交野市のあらたな万葉のシンボルとなった歌碑の除幕式に参列できた
ことに感謝しています。
ただ、昼食会場に携帯電話を忘れ、本日奪還してきました!(時間がないのに…)!

コンサートあれこれ

コンサートの最大の喜びは、娘と同じ舞台に立てたことです。
万葉うたがたり会のお手伝いとして、ピンチヒッターを務めてくれたことは
何度かありますし、3枚目のCDの「君待ち草」は娘の歌唱で録音しています。
このたびは、娘がプロの道を歩んでいる役者の立場で、劇団ともども出演して
くれたことが、本当にうれしいことでした。昨年12月に会場を決めた時から、娘に、主宰の
キタモトさんに共演をお願したい…と頼んで欲しいと言いましたが、劇団で芝居の予定も
いくつかあり、色よい返事はくれませんでした。私のこだわりで、ラブコールし続けて、
遊劇体の出演の実現に至りましたが、どうやらキタモトさんは、娘の相談には快諾してくださった
ようで、どうやら、娘のほうが「母の個人的な舞台」ということで、逡巡があったようです。
私は、「万葉」は意識してくださるに違いないので、テーマはお任せしました。
10月にはキタモトさんが特別に力を入れて演出された遊劇体の大作があり、お忙しいのも
承知していました。いよいよプログラムの作成準備に入った時に「犬養孝万葉人生」であることを
知り、ずばり恩師をテーマに取り上げ、朗読劇を作ろうとしてくださることに、私が感激しました。
テーマを考えられた時に、図書館で犬養先生の本をたくさん読破されたと聞きました。
そして、「犬養先生」の人生を通して、生き方や、何を私たちに語りかけ残されたかを
劇を通して表現してみたいという主旨に、再び感謝の気持ちでいっぱいでした。
結果、懐かしく犬養先生を思い起こしてくださった方もあり、岡本の今ある原点の恩師を
知ってくださった方もあり、明日香村で顕彰してくださる関村長は、明日香村で再演を!と
評判は上々で、とてもうれしいことでした。
キタモトマサヤさんは、うちあげの時に、「華やかな照明、舞台、衣装のうたがたり会が
あるので、僕たちはその逆で、シンプルで照明も最小限で、衣装も含めてモノトーンの世界を
イメージしました。」とおっしゃいました。さすが演出家です。
朗読劇とは言いながら、動きがある立体的な舞台で、なおかつご配慮ある演出に、感心しました。
キタモトさん、遊劇体のみなさま、お世話様になりまして、ありがとうございました。
昨日、娘が犬養先生の御魂にお礼に伺いたいと言うので、パネルをお返しにあがりながら、
一緒にお礼を申し上げてきました。会場で見てくださっていましたか…って。

縄文人にあいういう

10月24日、午後2時からが千秋楽です。
娘の所属する劇団「遊劇体」の公演です。数年前から継続的に泉鏡花の全戯曲上演に
取り組んでいて、今回は久しぶりに劇団代表のキタモトマサヤ氏の尊敬される劇作家の
作品をキタモト流の手法で演出された意欲的な舞台です。
私は初日に見ました。
娘は「米子」という元気で明るいおばあちゃん役。孤老の1人であろうが、生命力に
あふれ、自己主張もあり、しかし人間の弱さも熟知している魅力的な人間を演じた。
社会の片隅にある当たり前の光景と、老人の生き様、「老い」との闘い、在日朝鮮人の
こだわりと、ま反対のしたたかな生き方…など、「笑い」の場面が満載の中にも
重いテーマが横たわり、「人間性」や「生き方」を問いかける、悲しい場面や、
切なさが心を打った。
このような「役」を通して、娘は何を思い、何を表現したかったことだろう。
私は、観劇してから、これからは「米子」めざして、がんばろう!!!と思った。
やはり「遊劇体」の芝居ははっきりした主張がある。
12月4日には、この劇団が私の30周年のコンサートの舞台に華を添えてくださる。
それも「犬養孝先生」がテーマで…。
あ~あ、千秋楽の舞台、もう一度見たいなあ!!!
私は今から万葉学会2日目に出席してきます。『万葉集』は、私の人生の背骨ですから。
今夜帰宅して、娘と祝杯をあげられるかな。

犬養万葉顕彰会を終えて…。

はじめがあれば、終わりがある…。
永遠に終わりがないことを祈り続けていても、容赦なく現実に向かい合わされることがある。
昨日、2010年9月25日(土)をもって犬養万葉顕彰会が解散をした。
その解散の総会は、犬養万葉の心の拠点でもある明日香村で行い、80名近くの会員が
参集してくださった。
  
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平成20年10月3日の犬養先生の命日祭を最後に、私が会長を務めた第5期は終了し、
山内英正さんを代表として「犬養万葉顕彰会」は休会した。第6期を引き継ぐための
世話役や、手だてをいろいろと摸索した後の「休会」だった。
その後、休会中の顕彰会について議論・検討した結果、権威ある会をあいまいな形で消滅させる
ことは犬養先生に対して申し訳ないことだと結論を出し、解散のための準備に入った。
そして、2年後の秋の昨日、その日を迎えたのだ。
多い時には1500名くらいの会員を擁したこの会も、犬養先生が亡くなられてから以後は、脱会
されたり、亡くなられたり…とずいぶん人数も減少したが、「顕彰会」の名の通り、犬養先生の
没後、新たに入会された方や、平成19年の犬養先生の生誕百年に賛同してくださった方も
準会員として包含したので、最終的に全国で約523名の方々が、会員として名を連ねて
くださっていた。委任状も含めて有効数を確保できたので、解散決議案を出席者にはかり
ご承認頂いた。終結に向けて、役員で、企業マンで経験豊富な城山さんが、社会的に理解され、
常識的な内容で総会が進められるようにお骨折り頂き、心から感謝している。
そして、会員への約束通り、山内さん監修の生誕100年祭総括の「犬養万葉は永遠に」という
記念冊子を作成し、皆さんへの餞(はなむけ)とした。
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会場となった「かんなびホール」は、明日香村の社会福祉センターで、「太子の湯」で親しまれている
所だ。犬養万葉記念館の設立時には、事業部長であった吉田さんが、偶然所長としておられ、
当日の便宜も図って頂いた上、既に18日から3日間で終わって、既にかたづけられていた
「光のイベント」のオブジェを顕彰会の総会の参加者のために、再び展示して下さったり、
総会にも参加して頂き、ご挨拶をしてくださった。明日香村としての厚意を代表して示して
くださったことを本当にありがたく思った。
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当日は、代表者山内さんの都合で、午後からの開会になったので、午前中は有志で
「明日香村散策」を計画し、元副会長の水本さんが、下見をし、資料を作り、案内してくださった。
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役員で、犬養先生の歌碑を見るコースや、象徴的な甘樫岡など、意見を交換した後、やはり
顕彰会ならではのウオークを…と普段あまり歩くことの少ない、飛鳥駅の反対側の
古墳コースを歩くことに決めた。その後タイムリーに、そのコース上の牽子塚古墳が、斎明陵で
あろうと発表されたので、このたびの参加者もこのコースは、思いがけず興味深い散策
だったと思う。すべて運のよい運びだった。
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常に「先生、これでいいのですよね」と問いかけながらの準備だったが、明るく前向きに
お別れをすることが、「言霊」の世界なのだと思う。
会の結成時から、最後まで見届けてきた私にとって、思いがけない終末を迎えたが、
犬養先生を通して、顕彰会でいろんな方に出会えたし、多くの方に支えても頂いたことの感謝。
ひとえに犬養先生の「人徳」の賜物であり、それぞれが人生の一幕に「犬養先生」との縁の
誇りを感じておられることを私も含めて確信している。
最後まで尽力くださった、7人の侍の役員諸氏(オカモ・水本・鈴木・橋本・澤田・城山・山内)に
深く御礼を申し上げ、よい結束で最後までがんばれたことも私の喜びである。みなさんお疲れ様でした。
切なくも、でも肩の荷を下ろした1日。犬養先生、これでいいのですよね?
犬養先生、犬養万葉は永遠に…。

「犬養先生を語る」その五

サロンの近くの淀川の花火大会も8月7日に(無事終わり?)旧暦の
七夕の日を境に、秋風の吹きにし日より…の万葉歌のとおり「立秋」を迎えました。
気のせいか、少し風が立ち、一時の暑さもなごんだような気がします。
待ってましたとばかりに、車で通りがかった山間では、ひぐらしの声が聞こえ、
私は「秋」と言うと、心待ちの風情はなく、秋以降の行事や懸案を思って冷や汗が
流れます。
サロンでは、高校が夏休みと言うことで、教師の山内さんに、サロン開所当時から
こだわって開催してきた「犬養先生を語る」シリーズを再度お願いしていました。
今回はホットニュース(HPでもご案内している、茨城県下妻市大宝八幡宮に
建立された犬養先生の書による万葉歌碑)もあり、山内さんが除幕式に参列されたので、
その報告を是非聞かせて頂きたかったこともあり、サロンのプロジェクターを活用して
映像で確認しながら臨場感あふれるお話を伺えました。
私が138基目と思っていたのは誤りで、犬養先生の生誕100年祭の時期に堺と福岡県桂川町
に2基建立され、136基となりましたが、その後愛媛県久万高原と大津京に2基建立されて
いるので、実は今回で139基目と言うことでした。140基目も準備はされており…。
(内緒!)
また、新碑と合わせて、戸倉上山田温泉の「佐久屋」さんが、旅館を閉じられ、玄関庭
にあった歌碑が、千曲川沿いの万葉公園に移設されたことや、飛鳥坐神社の歌碑の敷地内
移転や、最新情報を教えて頂き、歌碑の建立に際して考えられなかった状況の変化などに
複雑な思いも残った。しかし、この暑いさなか、山内さんの行動力にも脱帽する。
ひたすら「歩く」情報収集なので、熱中症にくれぐれも気をつけてくださいね!!!
仏教で言えば、今年は犬養先生の13回忌に当たります。ちょうどお盆の時期も近く、
今回は私の中では「犬養先生を偲んで」というテーマで、皆さんに来ていただきました。
NHKのアーカイブス「あの人に会いたい」のビデオを見てから、次には、
万葉うたがたり会の歌姫、大岡美佐ちゃんによる犬養先生がお好きだった島崎藤村の
『若菜集』『落梅集』からの詩歌の名曲コンサートで、万葉旅行などを思い出して
頂きました。舞台では「初恋」の乙女の可憐な美佐ちゃんの浴衣姿が素敵でした。
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お暑い中、多くの方にお集まり頂き、ありがとうございました。
今後も「犬養先生」を特化して、サロン企画で続けていこうとおもっています。

堺万葉歌碑の会、例会。

1年に一度、百舌鳥野と浜寺の犬養万葉歌碑を訪ねる日がやってきた。
今年は4月12日。
大仙公園の満開の桜を期待した日の設定だったが、あいにくの朝からの春雨で、
少し参加者が少なかった。平成8年に建立された仁徳天皇の皇后、磐姫の「万葉歌」
(巻2の85~89の5首)と、平成19年に藤井寺の個人病院から浜寺に移設された、
置始東人の万葉歌碑2つを、現在しっかり守っておられる澤田さんを中心とした堺万葉
歌碑の会の方々と歩いた。
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      椿の花で飾られた万葉歌碑。ロマンチックでした。
御陵さんからバスで、宿院へ。阪堺電車(チンチン電車)に乗って浜寺下車(終点)。
駅前の「お団子屋」さんで、花見団子や、すはま団子や、春の味覚を調達。
それだけでも幸せ気分!!!
人気のない松林だったが、りりしく存在する万葉歌碑は、絵になっている。
先生、また来ますね! と久しぶりの見学を楽しみ、帰路についた。
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まぼろしの103歳、お祝いしました。

4月1日がめぐってきました。
知人に4月1日生まれの方が結構多いことがわかりましたが、私たちオールド
甲南女子大生にとってはいつまでも「4月1日=犬養孝先生のお誕生日」です。
今年も西宮の犬養邸に5人が集まりました。
オカモサロンもできたので、吉本愛子さんにお手数を煩わすことを避けたいと
集会の場所変更も考えましたが、私たちが先生の魂の留まるなつかしいお家に伺う
ことの意義も大きく、また吉本さんが「みなさんが来てくださることによって
この家に賑わいが戻ってくることがうれしい!」とおっしゃいました。よかった!
そして「私たちが住んでいるのは私たちの家ではなく、今でも犬養先生のお家ですから…」と。
こうして先生亡きあとも「お誕生日記念日」に私たちが集まることは、犬養先生が
「機会」を作ってくださっていたからこそ、連綿と今日まで続いているのです。
愛子さんを囲んで話す私たちの会話は「夫の定年?子供の結婚?家族のこと」「親の介護」
「自分の体調」など所帯じみた!?話題ですが、大いに盛り上がります。
犬養先生はきっと興味津々で聞いておられたと思います。かつてのゼミ旅行の時のように(笑)。
楽しいひとときをあとに、私は後ろ髪を引かれながら夕方から「平成の歌垣」の
初めての稽古に出かけました。タテの会でしゃべりすぎて声で~へん!(泣)

TSUBAICHIでの絆

私の人生は、犬養孝先生なしには語れないが、さかのぼっては神様に
いろんな人に出会わせて頂いたおかげで、本当に多くの方々のご厚情や
支えによって今日の私がある。
万葉集にメロデイーをつけることを教えてくださった扇野聖史さん、それを
イベント化してくださった松田一二さん。
私のオリジナルな活動は自分で生み出したわけではない。
ただ、私も気付くことのなかった能力を引き出して頂き、「作曲」「編曲」
など、大好きな音楽と万葉集との接点が持てたことは、本当に幸せだ。
そして、演奏活動を支えてくれた仲間たち。今春で29年目の活動に突入する。
スタートをして、人麻呂楽団の頃からするとメンバーも、時に応じて交代が
あったが、それでもとぎれることはなく、いつも誰かに助けられていた。
その中でも特に活動歴も長く、深い縁のある山寺寿子さん。
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ヤマハの音楽教室での私と同期の講師で、4大のピアノ科卒業の実力派だ。
加えて当初から、家庭的というのか、洋裁・編み物・料理…とマメで、
器用な人だった。仕事ぶりは、ヤマハ音楽教室で幼児教育の「3歳児ランド」
というコースが始まった時の草分け的講師で、その後の講師たちのお手本と
となったことは、語り草になっている。結婚をきっかけにヤマハ音楽教室は
引退してしまったけれど、それ以前から、うたがたり活動に参加してもらって
いたこともあり、ご主人に許可を頂き「オカモの活動」だけ、音楽を続けても
OKということで、二人の息子さんの産休を除いては、ずっと私の傍らで
支え続けてもらっていた。
そして、いよいよTSUBAICHIを立ち上げるにあたり、一世一代のお願いをした。
とても私一人ではやっていけない。でも、彼女と一緒なら絶対大丈夫!という
妙な安心感があった。自由な身の上の私と違い、子育ての真っ最中で、ご主人
の理解も必要…。物心ともに大事な時期でもある。
オープンしてから娘が、「ママにとって、山寺先生がパートナーになることを
受けてもらったことがよかったね。」と言った通りだ。
物件を見つける前からサロンが完成するまで、備品の一つ一つまでを二人三脚で
準備をしてきた。何と心強かったことか…。
お披露目コンサートでサロンは幕をあけたが、3日間、何かと彼女の姿を
目で追い、確認して安心する…。まるで母と子だ!(笑)
そして、当日も主役の私が不安になったり心配のないように、見えないフォローも
たくさんあったと思う。本当にありがとうね!
いよいよスタートし、これからが私たちの正念場。これからもよろしくね!
そして、サロンを立ち上げるまでに、乾さん、西本さん、三木さんの男手で、
家具を運び入れたり、組み立てたり、パソコンをつないでもらったり、完全な
ボランテイアで、サラリーマンの貴重な休日を返上してお手伝いくださった。
ありがとうございました。
サロンの生命線である、音響関係の準備は富岡さんに、また映像の設備については
阪本さんに安心してすっかりお任せすることができた。
お手数をかけまして、ありがとうございました!
また、このたびご縁を得た、サロンの家主さんの松下さんも素晴らしい人格者で、
お目にかかるたび、笑顔でご挨拶ができ、早々にお親しくなれた。
サロンのお向かいのおしゃれな喫茶店のマダムは、甲南女子大での後輩だったなんて!
何だか親しみが湧き、ご近所付き合いが楽しい。
いろんな人たちが、協力し築きあげてくださったお城。
大事に、また有効に多くの方々の足場、拠点、パフォーマンスの場となります
ように願いながら、営業活動に頑張りま~す!
そして、大学院もちょうど新学期が始まりました…。(汗)