まだまだ踏破できない「犬養山」!!


「昼下がり通信」雑感その2. 私のきまぐれで3年ぶりに投函したにも関わらず、直後にメール、電話、そしてお便りと大変多くの方々からお返事を頂きました。一方通行でもともかく発信することにこだわったのですが、私のささやかな気持ちは宛名だけは「手書き」にしたことでした。返信は、私とのお付き合いの中での関係やお人柄を改めて知る機会ともなり、私にとって幸せなプレゼントとなりました。
この閉塞した時期であったことで、「手紙」「便り」が届くというアナログなことが、結果的に良かったとも言えそうです。
犬養先生は毎日毎日、数通の手紙、はがき、その他寄贈本など、郵便物が絶えない日常でした。しかし帰宅されるなり着物に着替え、郵便物に目を通し、寄贈本でも夕食までに斜め読みなさいます。そして「その日のうちに」お返事を書かれるのです。すべての人に・・・。
 昨年末、三重県松坂市で80年前の犬養先生の書簡が多数発見されました。お相手は田邉幸雄さんとおっしゃる万葉学者でした。取材の朝日新聞社の記者は開口一番「犬養先生はお手紙を書かれる方ですか?」と聞かれ、私は「はい、マメに書かれました」と即答し、一瞬記者が発見された書簡の値打ちに絶望感を抱かれたかもしれません。(笑) それくらい日常的に犬養先生が人間関係を大事にし、礼を重んじられたお人柄がよくわかります。多い時には犬養先生に年賀状が4000枚も届きましたが、2月末までかかってすべての方にお返事を書かれました。多くの犬養ファンがそれぞれに「犬養先生から頂いたはがき、手紙」を宝物として大事にされていることをよく伺います。その様子を私はずっと傍で見てきました。そして、その時から絶対に見習おうと決めて今日まで来てしまいました。急ぎの返信でない限り、先送りしたり、出しそびれたり・・・。私はだめだ。犬養先生のように毎日郵便物が届くわけでもなく、「相手に届いたことを伝える」それだけのことが、先生が亡くなられて20年以上経っても、いまだにまだ私はできていません。わかっているのに・・・。家族は毎年「自ら年賀状も出さずによく皆さんが三千代に出してださることだ」と感心していますが本当にその通りです。
余談ですが、犬養先生はお中元、お歳暮の令状も自ら書かれていました。帰宅されて「おかもちゃん、誰から何が届いてるか教えて・・・」といつものように座卓にスタンバイ。私が「ディオールの靴下が3足です」とか、「一保堂のお茶です」と伝えると、はがきにもそのまま、「このたびはディオールの靴下をお送りくださいまして・・・」とか、「一保堂のお茶をありがとうございました」とか、伝えたそのまま品物の中身も書いてしまわれるので、「先生、そんな具体的に書かなくても・・・」と言ったことがありますが、今から思えば、送り主は中身についても「正しく届いたこと」を知られたわけですし、結果良し??? 本当に可愛げのある先生でした。そんな先生の傍で学ばせて頂いたことはいっぱいあり、できるだけ実践しているつもりですが、唯一「相手に返信する」「感謝を伝える」ことの習慣がいまだできてない、できない私です。ずっとずっと心の奥底に感じている呵責です。
 もう一つの便りの余談は自慢話。犬養先生は私が卒業してもダジャレばかりのもあれば、旅行の仲間たちとの寄せ書きだったり、折に触れお便りをくださいました。写真はステイホームで整理していた時に出てきたはがき。ハワイからの便りです。実はその時のお土産のムームーもあり、着古しましたが今も処分できないで、衣替えのたびに出してはしまって・・・を繰り返しています。もう何年繰り返しているでしょうか。
 このたびは3年ぶりの通信で、新たな方への自己紹介となったり、旧交を温めたり、また亡くなられたり、高齢で施設に入っておられたり、転居も含めていくつかの音信不通にあい、後悔の念もありました。自分で文を書く、宛名がかける間に、大好きな人たちとのやりとりを自発的にしていきたいものです。できれば、パソコンではなく手書きでできたら・・・。
犬養山、頂上はまだまだ高く険しいです!!!
メルカリ出品のようでした。(笑)
 

平成芭蕉の旅語録~令和ゆかりの地 壱岐の万葉公園50周年記念イベントに想う

令和元年11月17日、長崎県壱岐市石田町の万葉公園で「開園50周年記念イベント」が開催され、新元号「令和」の典拠となった万葉集が注目される中、壱岐市の白川博一市長のご挨拶の後、犬養万葉記念館の岡本三千代館長による「万葉講話と万葉うたがたり」および大宰府万葉会による歌語りが披露されました。

犬養記念館岡本館長の万葉講話

さらに地元参加者による短歌創作コンテストも開催され、私はこのコンテストの審査員を務めさせていただきましたが、いずれも素晴らしい歌で、甲乙つけがたく難しい審査でした。

しかし私、「令和の旅人」平成芭蕉は、「万葉の旅人」岡本三千代館長と同様に犬養節で万葉集に親しんできましたので、今回のイベントにはとても感銘を受けて、東京と関西からツアーを組んで参加させていただきました。私にとって旅の最大の楽しみは旅先で出会った人と絆を作り、良き「想い出」として残すことです。

ここで注意していただきたいことは「思い出」ではなく「想い出」として残すことです。「思い」という字は、自分の「田」んぼ(フィールド)について「心」を砕くと書きますが、「想い」という字は、「相」手のことに「心」を砕くと書き、相手のことを考えるという行為を伴っているのです。

大宰府万葉会による歌語り

大宰府万葉会による歌語り

すなわち「思い出」は自分中心の記憶とすれば、「想い出」は旅先で出会った相手のことを意識した記憶で、今回は昨年の古事記講座でお世話になった壱岐観光連盟の方々や壱岐ゆかりの遣新羅使に想いを馳せました。壱岐の万葉公園には、天平8(736)年の「遣新羅使」の一員で、新羅へ向かう途上、この壱岐市石田町の印通寺付近で病死した雪連宅満(ゆきのむらじやかまろ)の死を偲んだ次の万葉歌碑が建てられているのです。

「石田(いわた)野に 宿りする君 家人のいづらと我を 問はばいかに言はむ」(石田野に眠っている雪宅麻呂君よ、我々はこれから新羅に向かい、都に帰るが、その時、君の奥さんが、私の主人はどこにいるのかと私に尋ねたら、私はなんと答えようか)

雪連宅満への挽歌の歌碑

雪連宅満への挽歌の歌碑

万葉人は歌を詠むことによって、死者への鎮魂と悲しみを尽くそうとして挽歌を詠んだのです。石田(いわた)野は現在、石田(いしだ)町と呼び、そこに石田峯という丘に小さな墓がありますが、これが遣新羅使、雪連宅満の墓と考えられています。雪連宅満が亡くなった時の挽歌はこの歌を含めて万葉集の中に9首残っていますが、その反歌としては六人部鯖麻呂(むとべのさばまろ)が詠んだとされる

「新羅へか 家にか帰る 壱岐の島 行かむたどきも 思ひかねつも」

があり、この歌は雪連宅満が亡くなったことで、一行は不安を感じてこのあと新羅に行こうか、家に戻ろうかと思い悩んだ心情が歌われています。

遣新羅使が眠る石田野

遣新羅使が眠る石田野

壱岐出身の遣新羅使 雪連宅満(ゆきのむらじやかまろ)

雪連宅満の先祖は、壱岐出身の占い師であり、朝廷の信任の厚かった押見宿禰(おしみのすくね)で、壱岐にある「月読神社」を京都の松尾大社に分霊した人です。

その縁もあって、雪連宅満は松尾大社の宮主(みやじ)として月読命を祀り、壱岐の島司も兼ねて神祇官として出仕し、卜占(ぼくせん)を行っていたのです。

すなわち、彼は航海途上で亀ト(きぼく)という、亀の甲を焼いて吉凶を占う卜部(うらべ)として乗船していました。

当時、卜部は、安全な航海をする上で、欠くことのできない存在でしたので、彼の死は一行にとって本当にショックであり、その先不安を抱いたのも当然です。

亀卜に使われた亀甲

亀卜に使われた亀甲

日本からの遣新羅使は数回に及んでいますが、この雪連宅満が同行した天平8年の遣新羅使一行は、阿倍継麻呂を大使として大阪の難波津を出港した後、瀬戸内海で悪天候や潮の満ち干に恵まれず、「佐婆(さば)の海」と呼ばれた山口県の周防灘(すおうなだ)では遭難して豊前の中津に漂着しています。

それから博多に向かいましたが、博多に到着した時には七夕(新暦では8月17日)を迎えていました。

博多を出発した後も玄界灘が荒れて難航し、糸島半島の周囲をまわりこむように唐津湾まで避難して、苦労を重ねた末、壱岐島に着いたのは旧暦で8月中旬頃と言われています。

本来ならば秋には帰ってくる予定が、秋になってもまだ壱岐周辺をうろうろしていたことになります。

そして対馬に着いた時にはすでに紅葉が始まっており、ここでも天候に恵まれず南岸の浅茅浦、北側の竹敷浦で一週間以上、日和待ちをして苦労の末、新羅へ到着しました。

しかし、外交使節としての待遇は受けられず、何の役も果たせずに帰って来ました。そのため、往路では140首詠まれていますが、復路は5首しか詠まれていません。

新羅が予告なしに国名を王城国と変えたのを無礼と考えた日本が、前年に新羅から日本に来た使者を追い返した報復だったのでしょう。

まさしく苦難の旅で大使の阿部継麻呂も復路の対馬で疫病にかかって客死、副使の大伴三中も病気にかかり、帰国後には都に疫病がはやるという祟られた旅だったのです。

遣新羅使人と防人の万葉歌がたり

大宰府万葉会による「遣新羅使人」の悲別の歌語りで紹介された歌からは望郷の思いが伝わってきましたが、船は前へ前へですが、一行の心は後ろへ後ろへと引かれていた思いが感じられました。今日、万葉公園の眼下には玄界灘や遣新羅使一行が入港した印通寺港、雪連宅満の墓地のある石田野の丘、弥生時代の環濠集落跡である原の辻遺跡などが展望できます。

弥生時代の原の辻遺跡

弥生時代の原の辻遺跡

しかし、この丘から玄界灘を眺めると、壱岐に着いた彼らは「新羅まで行きたくないが、苦労して渡ってきた玄界灘を戻るのも大変だ」と悩んだことでしょう。

犬養孝先生はその著書『万葉の人びと』の中で、「自分が歌人だという意識が全くない遣新羅使人の歌は、わが日本の歌の伝統として大切です」と記していらっしゃいましたが、私も今回のイベントでそのことがよく理解できました。この万葉公園開園50周年記念イベントに参加した心境は、まさしく歌詠みコンテストで最優秀賞を受賞された郷ノ浦町の柳澤幸子さんの歌

「秋風の さやかな中に たたずみて 古しのぶ 万葉の丘」

そのものでした。

しかし、国境の島、壱峻島に来て心打たれる歌は、やはり外国の来襲に備え、九州沿岸で防備、農耕にあたった「防人」の妻子との別れ難い感情や家族を思いやる気持ちを詠んだ歌です。

「万葉の旅人」岡本三千代館長の歌がたり「筑紫に遣はさるる諸国の防人が歌 父母草」は、平成芭蕉にとって「時の流れの忘れ物」として記憶に残りました。

犬養記念館の岡本館長と平成芭蕉

犬養記念館の岡本館長と平成芭蕉

『父母草』

時々の 花は咲けども 何すれそ 母とふ花の 咲き出来ずけむ

橘の 美袁利の里に 父を置きて 道の長道は 行きかてぬかも

父母が 頭掻き撫で 幸くあれて 言ひし言葉ぜ 忘れかねつる

父母も 花にもがもや 草枕 旅は行くとも 捧ごて行かむ

父母が 殿の後の 百代草 百代いでませ 我が来るまで

(四季おりおりの花は咲くのに なんでまあ母という花は咲きださなかったのかなあ

橘の美袁利の里に父を残して長い旅路は行きにくいことよ

父母が頭を撫でで、達者でいろやと言った言葉が忘れられないよ

父母が花ででもあればよいのに。草枕の旅をしていても捧げ持っていこうに

父ちゃん母ちゃんの住いの「ももよ草」の名のように百代もお達者で、私が帰ってくるまで)

この実りの島壱岐での万葉イベントを通じて、『万葉集』の巻15の「遣新羅使人の歌」の理解と令和ゆかりの「国境の島」壱岐に対する関心が深まることを祈念します。

 

 

母のDNA

3年ぶりに「昼下がり通信」を出した。思えば、「万葉うたがたり」って何? オカモは忙しそうだけど、何をしているの?と私の「多忙」の謎と、活動を発信していくことの使命を自覚してから、「昼下がり通信」を発行し始めた。第1号は平成9年(1997年)の9月1日発行であるので、今回の令和2年(2020年)5月15日発行の27号まで、約24年間続けてきたことになる。新たに受け取られた方はプライベートな紙面に戸惑われる方もおられるが、当初からのコンセプトは変わらず、➀1年に1度は発行する。➁今日までの私、家族、娘を支えてきてくださったコミュニティへの近況報告(教会であったり、友人であったり、家族であったり…)➂万葉うたがたり活動を通して、万葉歌、故地、行事の紹介など、柱は変わっていない。それで改めて私の一面を知って頂ければ幸いである。ただ、「昼下がり通信」に限らず、年々時間的な余裕と、体力・気力の衰えもあって、用事を先送りしてしまうことが多くなり、気になりながらも今回の通信は3年ぶりとなった。この時期の3年のブランクは残酷で、投函した便りの中に戻ってきたものもあり、亡くなられたことを知ったり、知らずに転居されていて音信が途切れたり、自らの不沙汰を後悔している。
そもそも私は「文章を書くこと」はそんなに嫌いではない。小学生の頃から作文をたびたび先生に披露して頂いたり、文集にも載せて頂いたり、思い返せば「書くこと」の経験は長い。我が家は、父はあまり文学的ではないが、母は読書家で高齢となった今も「読書」が最大の趣味である。お抱えの本屋さんから「新刊書」が出ると電話案内が届く御贔屓さんだ。母は書くことも達者で、私、弟(なかなか文章がうまい)、娘(機会があればきちんと自分の言葉で表現できる)が文章を「書く」ことの抵抗が少ないのは、母のDNAなのだろうと思っている。ほぼ娘の子育てをしてくれた母の「孫、つかさ」に対する文章をまとめた最初の冊子は、今から31年前に作った。娘が生まれた時刻が8月のお昼であったことから「真夏の昼下がり」というタイトルとなった。私の「昼下がり通信」のネーミングもそれから拝借した。
その後も60歳から10年間続けた兵庫県の市民オンブズマン活動をまとめた「夕映えの時」、そして趣味の短歌をまとめた「思い出のアルバム」。そして母がこれが最後と私に手渡した原稿は、3年前「結婚66周年を迎えて~老いの徒然に」という自分史だった。私にパソコンの打ち込みと冊子の制作を頼まれていたが、忙しさに紛れてまさに先送りしていた。ところが昨年の2月に盲腸癌になり手術をした。高齢でもあるので、それを機に私のギアが入り、結局少し時間はかかってしまったが昨年ようやく完成した。母に手渡した時はタイトルは66周年から68周年に変わっていた。(笑) 父も黙って読んでいた。この自分史の巻頭に掲げた母のポエム「待ち合わせ」がいつも切ない。幸い今は両親ともに元気でいてくれているが、日々の「老い」を止めることができないことが悔しい。この写真は3年前西宮の名次神社の前で撮ったが、今は母は車椅子、父は押し車がないと歩けない。

それぞれに別れの日を覚悟しながら一緒にいる両親の今を大事にしないといけないと思いつつ、悶々とする私がいる。昨年写真に使ったマンションのカサブランカが今、満開である。母が大好きなカサブランカを今年も見ることができた。再び冊子を手にしながら、両親の純愛を見届けていきたい・・・。

あれから1年・・・。

マンションの夏椿、「沙羅」が咲き始めました。足元にはくちなしも・・・。令和2年ももう半分が過ぎようとしています。
昨年の6月は娘の東京での「二人芝居」公演があり、応援方々観に行きました。初めての単独東京公演だという時期に、娘が体調を崩していたこともあり、気になっていたことも事実です。何事もなく無事に終えられて本当にうれしかったです。また、犬養万葉記念館では、犬養先生を支えて後継者とも目されておられた清原和義先生の命日月である6月を選んで23回忌の記念同窓会を開催させて頂き、武庫川女子大学の卒業生の方々とも交流を深められる機会ともなりました。そして、月末には壱岐島へ行くきっかけとなったクラブツーリズムのお誘いで、テレビ東京の「旅するお疲れさま」と言う旅番組の案内人にも加えて頂き、「足柄峠」へ行きました。
令和元年の6月・・・。まさに新たな時代の始動が感じられる毎日だったように思います。容赦ない時の流れを目の当たりにしながら、この「6月」からはきっと新たな展開があることでしょう。「新しい生活スタイル」というよな表現が多いですが、私は時を取り戻せたステイホームには感謝しています。スローライフは私たちが忘れかけていた?無理やり避けていた「家族」などの人間関係を見直してくれました。日々の生活の「不要不急」を精査してくれました。「日常のあたりまえのありがたさ」をより強く感じさせてくれました。原点に返ったところから、加速度を付けてダッシュですね。まさに「初恋を思うべし」
コロナウイルスを克服して前進あるのみだ!!!

日常に向けてスタート!

犬養万葉記念館も6月1日から通常開館となりました。犬養孝特別展示へのいざない、またあざさをはじめ、ささやかな館庭の初夏の風情を求めてご来館を楽しみにしています。ただ、まだ県外移動は自粛中ですので、今は奈良県内の方々中心のご案内となりますが・・・。若菜祭で断念した令和記念講演会をぜひ実現させたく、再度猪熊兼勝先生にお願いをいたしました。6月20日(土)に開催いたします。ただ、記念館は三密を避けるには会場が小さく集客が限られますので、記念館の定員と同じ40名収容の会場として、明日香村の社会福祉センター内(太子の湯と同所)のかんなびホールを使用させていただきます。ご理解頂いた教育委員会には感謝です。参加希望の方は、(感染経路確保のため)必ずお申し込みをお願いします。
おかも個人も6月からは講座が再開します。各グループの世話役の方々が、会場確保や、会場使用の試行錯誤に追われておられ、本当にありがたく、また再開の期待への責任も感じるところです。肝心の私はステイホーム中、自宅にどっぷり缶詰で過ごしたというより、コロナ以前も以後も変わらぬ実家と明日香村との行き来と、昼下がり通信の作業でそれなりに時間に追われましたので、そこからいよいよ「日常に向けて」の生活に、私自身のモチベーションを高めなければと焦り始めているところです。公私ともにブランクを経ましたが、それが新たなステップになることは間違いなく、(コロナ感染をいかに克服しながらということが最も大事ですが)O型おかも!いつもながら「前進あるのみ!」の能天気で日常へと突破していきたいと思います。

聖霊降臨の日、御ミサが再開。

コロナウイルスの世界的感染の猛威で、日本はおろか、世界の教会で集会ができない状態でした。信者が復活祭の御ミサに与れないことは前代未聞のことでした。
日本でも感染がピークを過ぎたという判断のもと、日常が少しずつ取り戻されつつあります。私の所属のカトリック仁川教会でも今日から公開ミサの連絡がありました。みなさん待ちかねておられたことと思います。
私はきょうは明日香にとどまっており、相変わらず御ミサに与っておらず呵責の思いです。
今日は特に「聖霊降臨の祝日」で、イエス・キリストの復活後、再び昇天されたのちに集まって祈りをささげる人たちの上に神からの「聖霊」が下ったという出来事のエピソードが新約聖書にあります。それを記念する祝祭日が今年は本日に当たります。大事な日をきっかけに教会も日常を取り戻せることを切に願います。
「聖母の騎士6月号に」新型コロナウイルス感染症に苦しむ世界のための祈りが掲載されていました。4月に日本カトリック司教協議会で認可されたお祈りです。せめてこの祈りを毎日唱えようと心を新たにしました。
聖霊降臨の日、おめでとうございます!

気づき。

思いがけないパンデミックは、世界中の常識や価値観、生活様式を変えようとしている。その真っただ中の生活にあってまず思うことは「言霊」である。日本人に緊急要請をする、国民に呼びかける時に「国語」がおざなりになっていないか。老親と生活する私だけでなく、高齢化社会の日本において老人たちが理解不明の「英語?言語?」説明。文字表記。日本語も専門的な言葉が多く、ほんとうに不親切だ。ドイツが最小限に感染が抑えられているのも、メルケル首相のメッセージによるところが大きいと誰もが評価している。わかりやすく語り掛け、かつ科学的根拠を示しつつ、母親のような説得が国民の心に響いたのだ。説得力は大阪府の吉村知事はすごい。信念に満ちた呼びかけ、語りかけは私たちの心に強く入ってくる。政治家たちが役人の書いた文書を読み上げ、自分の「言葉」を持たないメッセージには「心がない」のだ。たましひが働かないうわべだけの「言葉」。「言霊」がぬけがらとなってしまっている。思えば犬養先生が評価された功績は、まったく『万葉集』に興味のなかった人に平易な言葉でわかりやすく語られたことが、多くの人を万葉の世界に誘い、万葉ファンをたくさん生み出されたことによる。
東京都知事の小池さんんも育ちのよい言葉遣いであるが、具体的に話そうと頑張っているのはわかるが、やはり外国語が日常の会話も含まれる生活環境だけに、横文字言葉やあらたな造語も多い。仕方がないか。今は非常時の対応に実力を問われる時を過ごしている。私たち友人はひたすら彼女の頑張りにエールを送り、体調を心配し、早く日常の日々を取り戻し楽になってほしいと願っている。そしてこの頑張りが、以前彼女が「排除いたします」という言葉が、その言霊が非難を浴び、反対に彼女がその場から排除されることになったことも記憶に新しい。何気なく発した言葉であろうとも言葉は生きている。毎日の小池知事の言葉、説明、表現を意識しながら聞いている私。政治家として本当に都民目線で語り掛けているかどうか期待し祈っているのだ。頑張れラージ!
検察庁人事へのツイッター、連日の政治家の発信、医療従事者以外は振り回されるコメンテーターの話、私たちはあらためて「言葉の持つ力」に感心し、ひいては「言葉のたましひ」によくも悪くも惑わされる「心」を冷静に保っていたいものだ・・・。

さくらに感謝💛

コロナウイルスの今年は、「桜花」は憩い、癒し、慰め、励ましの花となりました。何年かたってから、「あの時の思い」として瞼に焼き付く今年の桜です。
わざわざお花見をしなくても移動したり、車窓から見る光景だけでも思わずうっとりと見とれるほどの素晴らしい桜花でした。年初から温暖な気候で開花時期も通常より早く、実際の見ごろも早いのではないかと心配されていましたが、雨風の機会も少なく、子供たちの入学式にも間に合い、いよいよ花吹雪が舞い始めるころとなりました。日本人の心がすさぶ中で唯一心が温まる神様からの贈り物だったように思います。
さくらには神が宿るとも言われますが、その魅力は「魔物」のように自粛規制の中、人々を呼び集めてしまい、皮肉な結果でもありました。
私は交野万葉学級という講座で講師をさせて頂いておりますが、きっかけは交野市私部西を流れる天野川にかかる逢合橋のたもとに建立された万葉歌碑がご縁です。揮毫をさせて頂き、2011年7月6日に除幕されました。以来、歌碑は私の分身として犬養先生の全国の万葉歌碑がそうであるようにように、「交野ケ原」が万葉故地として発信され、故地を守るシンボルでありたいと、私にとっても特別な場所となりました。七夕の時期にはイベントがここから始まりますので、開会式にはできるだけ参加をさせて頂いていますが、やはり年間この場所を訪れるのは限られます。歌碑建立にご尽力頂いた毛利さんは、これまでも季節に応じて様子を知らせて下さったり、草をひいたりごみを拾ってくださったり、見えないお世話をしてくださっていました。数日前、いつものように「逢合橋の歌碑と満開の桜です」と写真を送ってくださいました。日々の狭い視野の中で「そうだ、逢合橋の歌碑の桜も精一杯咲いて、橋を通る人たちの心を和らげているのだ」ということに気づき、毛利さんへの感謝と、桜の様子に涙が出そうになりました。大きく成長した素晴らしい桜の姿!
(歌碑建立の翌年の桜の写真がありました。こんなに成長していました。)

兵庫県、大阪府に緊急事態宣言が出ましたが、車で親元へ移動している日常ですので、いてもたってもいられなくなり、昨日足を延ばしました。
桜は散り始めましたが、花吹雪と桜のじゅうたんに趣を変え、私を待っていてくれました。今年もありがとうね。帰宅したころにはスーパームーンの月。
今年の七夕の頃には穏やかに夜空を見上げる時がきますように・・・。心から願っています。

阪神淡路大震災から25年!

あれから25年。

震災被害の大きかった阪神間の母校、甲南女子学園では、在校生、卒業生の安否確認も含めてすぐに被災状況の調査が行われました。その時に、文章を書いてほしいと言われて、作られた冊子があります。震災から25年を経た今、取り出してみました。2年後の平成9年1月に発行されています。

私の文章をコピーしてみました。

いま、各地の震災被害の教訓になっているのでしょうか。あの時の事実と現実を後世にきちんと伝えられているのでしょうか。風化させてはいけない・・・と思います。

 

おかあさんといっしょ💛

早くも令和元年の大晦日。あせりが先行しますが、開き直りの年越し!

MHKの教育テレビでは「おかあさんといっしょ」を放送中。60周年を記念した特別番組で、子育ての頃に親子して楽しんだことを思い出しました。そして今や不惑の年を超えた娘が大好きだった「じゃじゃまる」も登場。なつかしい! この出会いが今娘が役者をしている原点ではないかと母は思います。もちろん「にこにこぷん」の絵本も買い求め、私が楽しみながら読み聞かせをした記憶はありますが、2歳過ぎで、その絵本を「声色」を登場者のたびにすべて変え、何度も表情豊かに私たちにも聞かせてくれていました。我が子ながら器用な面白い子どもだと思っていましたが、今から思うと現在の「片鱗」だったかもしれません。ちなみに1歳2か月でよちよち歩きをし始めて、テレビの西城秀樹のYMCAを真似している写真も残っていますが、「歌って踊って、演じて・・・」と本当にユニークな娘です。

2020年新春には「落語」の舞台から仕事始めのよう。まあなんでも「やる気、本気!」の娘を見ていて、母は楽しませてもらっておりますが・・・。余談ですが私も甲南女子高校で有志が盛り上がり「落語研究会」(落研)の立ち上げを画策しましたが、あえなく却下されたことを思い出しました。その時は私は「じゅげむ」がレパートリーでした。やはり血は争えないかも???

と思いつつ、来年も元気で「役者稼業」に精を出してほしいです。母はいやがられても最強のサポーターとして追っかけるぞ!!!