89歳の誕生日に想う。

昨年の米寿の誕生日が最期の母のお祝い日となったが、子供、孫たちの生活リズムが合わないことを口実にみんなが集合して母との食事会すらできなかったことを申し訳なく思っていた。「米寿」という節目でもあったのに・・・。昨年は3月16日が月曜日だったので、たまたま土日を連泊した私に「私の誕生日だから2日も続けて泊まってくれたのね」と嬉しそうに母が言った一言がずっと心に刺さっていた。明日香と実家と行き来の生活で、老々介護の両親に頼られてからは律儀に3日に一度、1泊ずつの間隔で過ごしてきた。偶然の連泊がそんなにうれしかったのかと思うと、確かに実家へ帰ってきたときは夕食をして翌日の夜にまた帰る間の時間は、一緒に病院へ診察に行ったり、買い物に行ったり、美容院へ行ったり、目的があって、そのために帰宅していたようなものだった。母と自由に会話したりショッピングをしたり、二人で過ごす時間の余裕が全くなかったことが悔やまれてならない。そして私は2年前から両親には約束通り犬養万葉記念館とは縁が切れたと嘘をついていたのだ。ただ元号「令和」『万葉集』の注目で、やむなく忙しくなったのであろうと、両親ともに私を頼ることについてのあきらめの思いも少しあったように思う。そして、1年前から母のラストステージが始まっていたことを今になって気づくなんて。

今日、いろんなことを考えるうちに、落ち着かず、久しぶりに母の書斎机を整理した。「はなひな日誌」ファイルを見つけ、毎年の予防注射の接種証明書がきちんとファイリングされていた最後に、またまた母のメッセージを見つけた。「お父さんと猫をよろしくね」とは常々言われていたが、それに加えて、最後の3行に涙した。「二匹を最期までお願いします。お骨は少しだけ甲山墓地に埋め、残りはのんちゃんと一緒に家の祭壇に置いてください。」・・・と。そして、なんと母が2009年に産経新聞に投稿していた記事が残されていた。それで、はなひなが2008年夏生まれであることが再確認できた。おー、12歳半じゃん!(かなりの熟年猫になってました)

母と猫の絆は前回、湿布薬の反応で驚いたが、私にはずっとなつかなかった猫たちが「毎日顔を合わせ、食べ物を準備し、トイレをきれいにしてくれる」ことを理解したのかどうか・・・はわからないが、もう私を引っかいたり、噛んだりすることはなくなったので、ようやく「家族の仲間だ」ということに気づいたのだろうか。仲良く毎日を過ごせるようになったように思う。

はなひなを見ながら、この子たちもいつかどちらかが先に逝き、1匹になった時の不憫はあまりにつらいものがある。でも寿命も私といい勝負かもしれないな。母の亡き後、今の私のいやしは「はなひな」であり、また母を偲ぶ切ない存在でもある。

昨年はどさくさで予防接種には行けなかった。爪も切ってやらなきゃな。猫を飼いたかった母の願いに「飼いたければ飼ったらいいやん」といった手前、約束通りはなひなは任せてね!お母さん。

 

令和の万葉を歩く・・・テキストのご紹介!

奈良には「奈良まほろばソムリエの会」という任意団体があります。奈良検定の上位合格者の方々から発展して、観光ボランティアガイドをなさったり、蘊蓄や学びを出版されたり、最強の強者ぞろいの会です。そしてこのたび、10周年を記念して出された4冊目の本は「奈良万葉の旅百首」という、私たちにはうれしい「万葉歌」の詠まれたふるさとを学び歩くためのガイドブックです。思いがけず畏れ多くも「推薦文」というか、この本にエールを送らせていただく機会を得ました。私には長年万葉の旅に欠かせない、犬養先生の『万葉の旅』というバイブルがありますが、平成16年に出版社もあらたに再版したときに、地名の変更や地図の修正もしましたが、写真は犬養先生が昭和30年代に写された今や「原風景」として貴重な写真となり、時代と共に歩くための参考書としては、経験者以外はあまり現実的ではないものになってしまいました。ですから、この本は出版にあたって60名で精鋭の会員が1ページずつ担当され、個性あふれる内容となっていることが素晴らしいと思います。そして読みやすく、わかりやすい! 何よりの本が生まれました。やはり大和、奈良の万葉故地には犬養先生の歌碑も多く、記事にも犬養先生の名が時々見られることから、きっと犬養先生に敬意を表してくださり、私に「この本」のご挨拶のご配慮をくださったのだと思います。ありがとうございました。恐縮でした。

残念ながら西宮の書店にはまだ届いておらず、私が注文中に今日奈良ソムリエの会から「謹呈本」が届きました。犬養先生がお元気でしたら「いい本ができたね!」とお喜びくださったと思います。

4月には10周年の記念祝賀会が行われますが、私も出席させて頂き、みなさんへの感謝と賛辞を表したいと思っております。

ねこたちと母♥

私が物心のついた頃から、家には犬や猫がいて、成人して神戸から西宮へ移動してマンション生活になってからも家族の中にいつも猫がいた。そして、「のんちゃん」という岡本家で伝説の猫が亡くなってからは、今後のんちゃん以上の素晴らしい猫と出会うことはないだろうと家族みんなが二度と飼うまいという暗黙の了解があった。しかしそれから10年以上は経っただろうか。母が突然猫を飼いたいと言い出した。そして「今から猫を飼ってもおそらく私が先に逝き、そのあと引き続き猫の世話をしてもらえるだろうか」という相談だった。私はネコ大好き人間で大歓迎だったし、ただ母の言うように後々のことはなんとかなる・・・と軽く受け流し、飼うことを決めた。(母は同時にねこの通帳を作り、飼えなくなったときにこのお金を使って世話をしてほしいと貯金も始めた。)捨てられた猫を育てようとすぐに西宮市の動物管理センターに出かけたところ、ちょうど2匹の子猫が保護されていた。当然1匹のつもりが、子猫のいたいけない様子に一匹だけが選び難く2匹とも連れて帰り、家族の仲間入りをした。命名「はな」と「ひな」。以来、両親と共に家族の一員として暮らしてきた猫たち。

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私の計算違いだったのは、両親以外にはなつかず、出入りの多い私や娘には警戒心あらわで、ちっともなつかなかったことだ。私は外ネコには人気抜群なので、実家の猫たちにも懲りずにかまいすぎて、しょっちゅうひっかかれたり、かまれたり散々だった。それでも可愛くて、フォトジェニックの二匹が大好きだった。そんな中・・・母の入院から亡くなるまでの3か月のこと。

はなひな姉妹は毎日毎日母の寝室のベッドの上にいたので、母が緊急入院したのちも、半月くらい2匹は毎日母のいないベッドの上にいた。そして、9月を過ぎて異変に気付いたのか、母の寝室からリビングに出てきて「人」の姿を見ては隠れながら過ごすようになった。母がどうしても「父や猫に会いたい」と退院を希望し、10月になってようやく母が自宅へ戻った時は、直後から朝昼晩の介護ヘルパーさん、看護士さん、往診の医師など人が多く出入りして、猫たちは反対に恐れをなして寝室に寄りつかなくなってしまった。人が途切れた時に捕まえて、母のベッドに連れて行ってもすぐに逃げてしまう始末。母は「猫とも距離ができてしまったわね」と寂しそうにつぶやいたのが切なかった。母が体調がわるくなり始めた6月頃、私に「夕べ猫の夢を見たの。二匹が枕元にやってきて、長年お世話になりましたってお礼を言いに来たの。それで泣けて泣けて・・・」と話してくれたことがあった。近くぼんやりと別れの予感があったのかもしれない。
母の逝った後、猫たちはそれぞれに寝室をのぞきに行くことはあるが、今やリビングで生活することに慣れてきた。
ところが、ところが、驚くべき出来事があった。それは私が数日前ぎっくり腰になり、お風呂上りに母の残した湿布薬を張ろうとした時のこと。メントール?か独特の匂いの湿布薬を出した途端、寝ていた二匹が起きてきて、取り出した2枚の湿布薬に競うようにスリスリを始めたのだ。そして、グルグルとのどまで鳴らし始めた。(私はこの猫たちのグルグルを初めて聞いた!!!)私はもうびっくりして、何事が起ったのかと思ったがすぐに気づいた。「母の匂いだ!」毎晩神経痛の腰に湿布薬を張っていた母。そのそばで四六時中一緒にいたはなとひなの母の絆の匂いだったのだ。この子たちもどこかで母を求めていたのだ。それから毎日私が湿布を張るたびに近づいてきてスリスリが始まる。自宅療養中の母は準病室でもあったので、人の出入りだけではなく、消毒液や薬の匂いにあふれていた。もしもその時に母に湿布を張っていれば、猫たちが安心して寝室へやってきたかもしれないと思うともう後の祭りだが、あれだけ可愛がられた猫たちなのに、今の淡白さにはあきらめを感じていた私に、感動するくらい反応したはな・ひなの「母への慕い」を実感した。「お母さん、最後は寂しい思いをしたかもしれないけど、猫たちはお母さんとの絆を今頃私に見せてくれたよ」

「コンサート映像」が出来上がりました。

去る令和2年11月21日土曜日、「勝負の3週間」と言われた3連休の初日に「岡本三千代万葉うたがたりコンサート」を開催しました。昨年の今日、1月15日に初めて日本でコロナ感染が発覚してから1年。元号が「令和」となり『万葉集』が注目を浴びて、まさに「万葉元年」となるべく1年が、まるで冷凍保存されたまま過ぎ去ってしまったような時の移り行きを私たちは体験しました。
その中で11月のコンサートは唯一残せた万葉うたがたりの足跡でした。コンサートのタイミングは、思いがけない母の帰天があり、またコロナの規制が少し緩和した時期でもあり、悲喜こもごもな中、まさに幸運な「奇跡のコンサート」だったとも思います。
今だから話せることは、
➀きっかけは、8月14日に高岡万葉まつりの動画制作のためにうたがたり会が久しぶりに明日香村へ集まって「万葉歌」を歌ったこと。「楽しい時間」であり、「歌う楽しさ」で気持ちが解放されたひとときだったこと。
➁世間では秋のイベントのキャンセルが相次ぎ、会場のフレンテホールや、西宮文化協会からコンサート開催について声をかけて頂いたことも追い風となり、8月14日の私の心に火がついた。しかし、8月末に11月のコンサート開催の日程を決めた無謀は、ま近すぎてメンバーたちも半信半疑だったと思う。
➂8月7日に母が緊急入院したが、まさか3か月後に亡くなるとは思ってもいなかったこと。
➃規制緩和したといえ、コンサートについてはソフトもハードも背水の陣で準備を進めるたが、私は最悪「中止」は避けたかったので無観客も覚悟の上でコンサートを「DVD」に残すことはその時に決めた。(私でも最悪の場合を考えるのに、政府はコロナ危機の最悪の場合のシナリオは考えられないことが不思議だ。)余談。
➄企画は映像を最大限に使った舞台づくりとし、実際に歌の練習が始まるころには、母の様態が悪化していき、メンバーの知るところ、心配をかけるところとなった。
➅母の様子を気にかけながらの練習はメンバーに大いに気遣いをさせてしまった。そして、ひょっとして「XDAY」が重なれば最後にみんなに迷惑をかけてしまう。それを母が気遣ったかのように最後の全員練習を終えた日の夜、母が帰天した。私のコンサートを前に時間を残して母は逝った。

 そんな中で、開催した万葉うたがたりコンサート「40周年記念」のステージは、無観客ではなく100名の定員で、ご来場くださった勇気あるお客様に心から感謝いたしました。そして終わってみて「どのような舞台だったのだろう」と当事者の私が観客として楽しみにしていたコンサート映像がようやく完成しました。
今回のすべてに準備不足の舞台でしたが、40年のキャリアはメンバーの実力と結束で記憶に残るステージとなりました。役者の娘たちの出演協力や、講談で「犬養孝ものがたり」を聞いていただきました。個性あふれるメンバーのソロステージの圧巻。そしてマンネリが怖かった万葉うたがたりなど、「令和2年」の唯一のステージであり、40周年の機会を映像に残せて本当によかったと思っています。
そして、コンサートにこれなかった方のためにブルーレイで映像を販売させていただきます。よろしければ岡本までお申し込みください。「万葉は楽しい!!!」このことに尽きます。われら「万葉衆!!!」

母逝く・・・


11月5日、私の母が帰天しました。
緊急入院から、2か月の入院生活を経て、本人たっての願いで最期の1か月間は自宅で過ごし、旅立っていきました。
コロナ禍の入院は、本人も家族も遮断され、その間に弱っていきました。帰宅の条件は常時の点滴と酸素補給の条件下で、尊厳死協会の会員であり、本人の希望に反しましたが、帰宅のためにポートという点滴の管を体に通しました。苦渋の選択は悲しかったと思います。それでももう一度父と猫に逢いたくて帰宅した母。私にとっても密度の濃い1か月を過ごしました。母が大好きな自宅ベランダからのこの「夕景」写真は、最後に母に見せた10月31日の景色です。自身の著書にも「夕映えの時」と題しているくらい、言葉通り景色と人生の晩年とを重ね合わせていた表現そのものだったのでしょう。
父のことを案じ、猫に未練を持ちながら、初夏の風に乗ったまま秋空へと飛び立ってしまったわずかな時間を、今はまだ現実として受け止めかねている私がいます。自分の生き方の哲学を持った母は、時間をかけて「死」への準備を行っていました。私は母のその意思を全うするまで、まだ悲しみに浸る余裕はないのかもしれません。
葬儀は家族葬で7名で行いました。本当にアットホームで、泣いたり笑ったりしながら「母」を囲んだお別れができました。そして、遺言通り、長年登録していたアイバンクに連絡し角膜の提供も終え、片方ずつ二人の男性の役に立ったという報告を受けました。母は今も生きているのです。
そして、ミッションは教会での50日の命日祭で初めて親族知人にお知らせし、追悼ミサを23日に行う予定です。(コロナでちょっと心配ですが)母は零名が「ノエル」といい、零名とはかつての聖人にあやかってつける名ですが、クリスマスを記念した「ノエル」という表現が気に入って、「ノエル岡本まさご」ですが、幸運にも50日目がクリスマスにあたることの偶然。まさに神様のお恵みだと思いました。
少しずつ母の思い出を書いていこうと思います。本当に個人的なことですが、私にとっての偉大な母に感謝と愛を込めて・・・。今この文章を書いている背景のべランダでは、きょうも夕焼けがきれいです・・・。

ありがとうございました! そして…。

富山県高岡市は『万葉集』で越中歌壇と呼ばれる万葉故地の1つです。犬養孝先生が全国の万葉故地を歩かれ、執筆や万葉旅行によって多くの万葉ファンが「万葉の高岡」を知るところとなりました。
また、時の高岡市長の佐藤孝志氏(故人)が、犬養先生の協力を仰ぎ、自治体として平成元年より「万葉のふるさとづくり」に着手され、朝日新聞社の第1回「ふるさと大賞」も受賞されました。その間、万葉まつりも規模が大きくなり、三日三晩と言う『万葉集全20巻朗唱の会』という、とてつもないイベントが始まったり、日本で初めての『万葉集』に特化した研究博物館「高岡市万葉歴史館」が完成し、犬養先生のそばで私も当初から拝見したり、関わってきました。そして令和でにぎわった昨年は万葉朗唱の会の30回目、そして今年は高岡市万葉歴史館ができてから30年という節目の年となりました。昨年来の「令和」という万葉ブームの再来?や、次代への期待が高まる中、早々から思いがけなく「コロナ禍」に巻き込まれ、日本中、いや世界中の歯車が狂ってしまうという大変な年となりました。
万葉うたがたりの私個人も、また犬養万葉記念館と言う公共施設も日常を余儀なくされていますが、そのなかで、8月に高岡市万葉歴史館で「30周年記念展~犬養先生の思い出」として、初代名誉館長犬養先生を顕彰して特別展を開催してくださいました。私は行くことができなかったのですが、講座やSNSでご案内をしたところ、「行ってきました」とご婦人が写真をくださいました。おー、うれしい。

また、30年以上続いた「万葉朗唱の会」はいよいよ31回目と言う3巡目のスタートに、新たなスタイルで朗唱の会を実施されることになりました。「動画でつなぐ万葉朗唱」です。企画を聞いた時から現地に行くことができない残念さはありましたが、ポジティブな私は「チャンス!」と思いました。私たち万葉うたがたり会はもちろん、犬養万葉ネットワークで広がった全国の万葉故地の方々や、万葉愛好家の方々をお誘いし、「現地に行けなくても、出演時間にこだわらず、好きな時間、好きな歌の朗唱ができることの身近さ」や「私たちの自慢の万葉パフォーマンスができる機会です!」とお声をかけました。それぞれ時間的に追われて、また暑い時期に衣装を着ることも大変でしたが、いよいよ配信、放映される本番の10月2日が近づくにつれ「朗唱数珠つなぎ!?」への興味は高まり、とても楽しみです。そして、きっとこのスタイルはこれからも残るのではないかと思います。だって、このあわただしさの中で撮られた動画を経験して「次回は!」と反省や新たな意慾から、やる気になられた方々も多いと思います。時間的に余裕のなかった私たち万葉うたがたり会がそうですもん・・・。1発どりだった私たちこそ、反省しきりです。(笑)

まだまだ踏破できない「犬養山」!!


「昼下がり通信」雑感その2. 私のきまぐれで3年ぶりに投函したにも関わらず、直後にメール、電話、そしてお便りと大変多くの方々からお返事を頂きました。一方通行でもともかく発信することにこだわったのですが、私のささやかな気持ちは宛名だけは「手書き」にしたことでした。返信は、私とのお付き合いの中での関係やお人柄を改めて知る機会ともなり、私にとって幸せなプレゼントとなりました。
この閉塞した時期であったことで、「手紙」「便り」が届くというアナログなことが、結果的に良かったとも言えそうです。
犬養先生は毎日毎日、数通の手紙、はがき、その他寄贈本など、郵便物が絶えない日常でした。しかし帰宅されるなり着物に着替え、郵便物に目を通し、寄贈本でも夕食までに斜め読みなさいます。そして「その日のうちに」お返事を書かれるのです。すべての人に・・・。
 昨年末、三重県松坂市で80年前の犬養先生の書簡が多数発見されました。お相手は田邉幸雄さんとおっしゃる万葉学者でした。取材の朝日新聞社の記者は開口一番「犬養先生はお手紙を書かれる方ですか?」と聞かれ、私は「はい、マメに書かれました」と即答し、一瞬記者が発見された書簡の値打ちに絶望感を抱かれたかもしれません。(笑) それくらい日常的に犬養先生が人間関係を大事にし、礼を重んじられたお人柄がよくわかります。多い時には犬養先生に年賀状が4000枚も届きましたが、2月末までかかってすべての方にお返事を書かれました。多くの犬養ファンがそれぞれに「犬養先生から頂いたはがき、手紙」を宝物として大事にされていることをよく伺います。その様子を私はずっと傍で見てきました。そして、その時から絶対に見習おうと決めて今日まで来てしまいました。急ぎの返信でない限り、先送りしたり、出しそびれたり・・・。私はだめだ。犬養先生のように毎日郵便物が届くわけでもなく、「相手に届いたことを伝える」それだけのことが、先生が亡くなられて20年以上経っても、いまだにまだ私はできていません。わかっているのに・・・。家族は毎年「自ら年賀状も出さずによく皆さんが三千代に出してださることだ」と感心していますが本当にその通りです。
余談ですが、犬養先生はお中元、お歳暮の令状も自ら書かれていました。帰宅されて「おかもちゃん、誰から何が届いてるか教えて・・・」といつものように座卓にスタンバイ。私が「ディオールの靴下が3足です」とか、「一保堂のお茶です」と伝えると、はがきにもそのまま、「このたびはディオールの靴下をお送りくださいまして・・・」とか、「一保堂のお茶をありがとうございました」とか、伝えたそのまま品物の中身も書いてしまわれるので、「先生、そんな具体的に書かなくても・・・」と言ったことがありますが、今から思えば、送り主は中身についても「正しく届いたこと」を知られたわけですし、結果良し??? 本当に可愛げのある先生でした。そんな先生の傍で学ばせて頂いたことはいっぱいあり、できるだけ実践しているつもりですが、唯一「相手に返信する」「感謝を伝える」ことの習慣がいまだできてない、できない私です。ずっとずっと心の奥底に感じている呵責です。
 もう一つの便りの余談は自慢話。犬養先生は私が卒業してもダジャレばかりのもあれば、旅行の仲間たちとの寄せ書きだったり、折に触れお便りをくださいました。写真はステイホームで整理していた時に出てきたはがき。ハワイからの便りです。実はその時のお土産のムームーもあり、着古しましたが今も処分できないで、衣替えのたびに出してはしまって・・・を繰り返しています。もう何年繰り返しているでしょうか。
 このたびは3年ぶりの通信で、新たな方への自己紹介となったり、旧交を温めたり、また亡くなられたり、高齢で施設に入っておられたり、転居も含めていくつかの音信不通にあい、後悔の念もありました。自分で文を書く、宛名がかける間に、大好きな人たちとのやりとりを自発的にしていきたいものです。できれば、パソコンではなく手書きでできたら・・・。
犬養山、頂上はまだまだ高く険しいです!!!
メルカリ出品のようでした。(笑)
 

平成芭蕉の旅語録~令和ゆかりの地 壱岐の万葉公園50周年記念イベントに想う

平成芭蕉の旅語録、平成芭蕉こと黒田尚嗣さんのエッセイです。

母のDNA

3年ぶりに「昼下がり通信」を出した。思えば、「万葉うたがたり」って何? オカモは忙しそうだけど、何をしているの?と私の「多忙」の謎と、活動を発信していくことの使命を自覚してから、「昼下がり通信」を発行し始めた。第1号は平成9年(1997年)の9月1日発行であるので、今回の令和2年(2020年)5月15日発行の27号まで、約24年間続けてきたことになる。新たに受け取られた方はプライベートな紙面に戸惑われる方もおられるが、当初からのコンセプトは変わらず、➀1年に1度は発行する。➁今日までの私、家族、娘を支えてきてくださったコミュニティへの近況報告(教会であったり、友人であったり、家族であったり…)➂万葉うたがたり活動を通して、万葉歌、故地、行事の紹介など、柱は変わっていない。それで改めて私の一面を知って頂ければ幸いである。ただ、「昼下がり通信」に限らず、年々時間的な余裕と、体力・気力の衰えもあって、用事を先送りしてしまうことが多くなり、気になりながらも今回の通信は3年ぶりとなった。この時期の3年のブランクは残酷で、投函した便りの中に戻ってきたものもあり、亡くなられたことを知ったり、知らずに転居されていて音信が途切れたり、自らの不沙汰を後悔している。
そもそも私は「文章を書くこと」はそんなに嫌いではない。小学生の頃から作文をたびたび先生に披露して頂いたり、文集にも載せて頂いたり、思い返せば「書くこと」の経験は長い。我が家は、父はあまり文学的ではないが、母は読書家で高齢となった今も「読書」が最大の趣味である。お抱えの本屋さんから「新刊書」が出ると電話案内が届く御贔屓さんだ。母は書くことも達者で、私、弟(なかなか文章がうまい)、娘(機会があればきちんと自分の言葉で表現できる)が文章を「書く」ことの抵抗が少ないのは、母のDNAなのだろうと思っている。ほぼ娘の子育てをしてくれた母の「孫、つかさ」に対する文章をまとめた最初の冊子は、今から31年前に作った。娘が生まれた時刻が8月のお昼であったことから「真夏の昼下がり」というタイトルとなった。私の「昼下がり通信」のネーミングもそれから拝借した。
その後も60歳から10年間続けた兵庫県の市民オンブズマン活動をまとめた「夕映えの時」、そして趣味の短歌をまとめた「思い出のアルバム」。そして母がこれが最後と私に手渡した原稿は、3年前「結婚66周年を迎えて~老いの徒然に」という自分史だった。私にパソコンの打ち込みと冊子の制作を頼まれていたが、忙しさに紛れてまさに先送りしていた。ところが昨年の2月に盲腸癌になり手術をした。高齢でもあるので、それを機に私のギアが入り、結局少し時間はかかってしまったが昨年ようやく完成した。母に手渡した時はタイトルは66周年から68周年に変わっていた。(笑) 父も黙って読んでいた。この自分史の巻頭に掲げた母のポエム「待ち合わせ」がいつも切ない。幸い今は両親ともに元気でいてくれているが、日々の「老い」を止めることができないことが悔しい。この写真は3年前西宮の名次神社の前で撮ったが、今は母は車椅子、父は押し車がないと歩けない。

それぞれに別れの日を覚悟しながら一緒にいる両親の今を大事にしないといけないと思いつつ、悶々とする私がいる。昨年写真に使ったマンションのカサブランカが今、満開である。母が大好きなカサブランカを今年も見ることができた。再び冊子を手にしながら、両親の純愛を見届けていきたい・・・。

あれから1年・・・。

マンションの夏椿、「沙羅」が咲き始めました。足元にはくちなしも・・・。令和2年ももう半分が過ぎようとしています。
昨年の6月は娘の東京での「二人芝居」公演があり、応援方々観に行きました。初めての単独東京公演だという時期に、娘が体調を崩していたこともあり、気になっていたことも事実です。何事もなく無事に終えられて本当にうれしかったです。また、犬養万葉記念館では、犬養先生を支えて後継者とも目されておられた清原和義先生の命日月である6月を選んで23回忌の記念同窓会を開催させて頂き、武庫川女子大学の卒業生の方々とも交流を深められる機会ともなりました。そして、月末には壱岐島へ行くきっかけとなったクラブツーリズムのお誘いで、テレビ東京の「旅するお疲れさま」と言う旅番組の案内人にも加えて頂き、「足柄峠」へ行きました。
令和元年の6月・・・。まさに新たな時代の始動が感じられる毎日だったように思います。容赦ない時の流れを目の当たりにしながら、この「6月」からはきっと新たな展開があることでしょう。「新しい生活スタイル」というよな表現が多いですが、私は時を取り戻せたステイホームには感謝しています。スローライフは私たちが忘れかけていた?無理やり避けていた「家族」などの人間関係を見直してくれました。日々の生活の「不要不急」を精査してくれました。「日常のあたりまえのありがたさ」をより強く感じさせてくれました。原点に返ったところから、加速度を付けてダッシュですね。まさに「初恋を思うべし」
コロナウイルスを克服して前進あるのみだ!!!