母逝く・・・


11月5日、私の母が帰天しました。
緊急入院から、2か月の入院生活を経て、本人たっての願いで最期の1か月間は自宅で過ごし、旅立っていきました。
コロナ禍の入院は、本人も家族も遮断され、その間に弱っていきました。帰宅の条件は常時の点滴と酸素補給の条件下で、尊厳死協会の会員であり、本人の希望に反しましたが、帰宅のためにポートという点滴の管を体に通しました。苦渋の選択は悲しかったと思います。それでももう一度父と猫に逢いたくて帰宅した母。私にとっても密度の濃い1か月を過ごしました。母が大好きな自宅ベランダからのこの「夕景」写真は、最後に母に見せた10月31日の景色です。自身の著書にも「夕映えの時」と題しているくらい、言葉通り景色と人生の晩年とを重ね合わせていた表現そのものだったのでしょう。
父のことを案じ、猫に未練を持ちながら、初夏の風に乗ったまま秋空へと飛び立ってしまったわずかな時間を、今はまだ現実として受け止めかねている私がいます。自分の生き方の哲学を持った母は、時間をかけて「死」への準備を行っていました。私は母のその意思を全うするまで、まだ悲しみに浸る余裕はないのかもしれません。
葬儀は家族葬で7名で行いました。本当にアットホームで、泣いたり笑ったりしながら「母」を囲んだお別れができました。そして、遺言通り、長年登録していたアイバンクに連絡し角膜の提供も終え、片方ずつ二人の男性の役に立ったという報告を受けました。母は今も生きているのです。
そして、ミッションは教会での50日の命日祭で初めて親族知人にお知らせし、追悼ミサを23日に行う予定です。(コロナでちょっと心配ですが)母は零名が「ノエル」といい、零名とはかつての聖人にあやかってつける名ですが、クリスマスを記念した「ノエル」という表現が気に入って、「ノエル岡本まさご」ですが、幸運にも50日目がクリスマスにあたることの偶然。まさに神様のお恵みだと思いました。
少しずつ母の思い出を書いていこうと思います。本当に個人的なことですが、私にとっての偉大な母に感謝と愛を込めて・・・。今この文章を書いている背景のべランダでは、きょうも夕焼けがきれいです・・・。

ありがとうございました! そして…。

富山県高岡市は『万葉集』で越中歌壇と呼ばれる万葉故地の1つです。犬養孝先生が全国の万葉故地を歩かれ、執筆や万葉旅行によって多くの万葉ファンが「万葉の高岡」を知るところとなりました。
また、時の高岡市長の佐藤孝志氏(故人)が、犬養先生の協力を仰ぎ、自治体として平成元年より「万葉のふるさとづくり」に着手され、朝日新聞社の第1回「ふるさと大賞」も受賞されました。その間、万葉まつりも規模が大きくなり、三日三晩と言う『万葉集全20巻朗唱の会』という、とてつもないイベントが始まったり、日本で初めての『万葉集』に特化した研究博物館「高岡市万葉歴史館」が完成し、犬養先生のそばで私も当初から拝見したり、関わってきました。そして令和でにぎわった昨年は万葉朗唱の会の30回目、そして今年は高岡市万葉歴史館ができてから30年という節目の年となりました。昨年来の「令和」という万葉ブームの再来?や、次代への期待が高まる中、早々から思いがけなく「コロナ禍」に巻き込まれ、日本中、いや世界中の歯車が狂ってしまうという大変な年となりました。
万葉うたがたりの私個人も、また犬養万葉記念館と言う公共施設も日常を余儀なくされていますが、そのなかで、8月に高岡市万葉歴史館で「30周年記念展~犬養先生の思い出」として、初代名誉館長犬養先生を顕彰して特別展を開催してくださいました。私は行くことができなかったのですが、講座やSNSでご案内をしたところ、「行ってきました」とご婦人が写真をくださいました。おー、うれしい。

また、30年以上続いた「万葉朗唱の会」はいよいよ31回目と言う3巡目のスタートに、新たなスタイルで朗唱の会を実施されることになりました。「動画でつなぐ万葉朗唱」です。企画を聞いた時から現地に行くことができない残念さはありましたが、ポジティブな私は「チャンス!」と思いました。私たち万葉うたがたり会はもちろん、犬養万葉ネットワークで広がった全国の万葉故地の方々や、万葉愛好家の方々をお誘いし、「現地に行けなくても、出演時間にこだわらず、好きな時間、好きな歌の朗唱ができることの身近さ」や「私たちの自慢の万葉パフォーマンスができる機会です!」とお声をかけました。それぞれ時間的に追われて、また暑い時期に衣装を着ることも大変でしたが、いよいよ配信、放映される本番の10月2日が近づくにつれ「朗唱数珠つなぎ!?」への興味は高まり、とても楽しみです。そして、きっとこのスタイルはこれからも残るのではないかと思います。だって、このあわただしさの中で撮られた動画を経験して「次回は!」と反省や新たな意慾から、やる気になられた方々も多いと思います。時間的に余裕のなかった私たち万葉うたがたり会がそうですもん・・・。1発どりだった私たちこそ、反省しきりです。(笑)

まだまだ踏破できない「犬養山」!!


「昼下がり通信」雑感その2. 私のきまぐれで3年ぶりに投函したにも関わらず、直後にメール、電話、そしてお便りと大変多くの方々からお返事を頂きました。一方通行でもともかく発信することにこだわったのですが、私のささやかな気持ちは宛名だけは「手書き」にしたことでした。返信は、私とのお付き合いの中での関係やお人柄を改めて知る機会ともなり、私にとって幸せなプレゼントとなりました。
この閉塞した時期であったことで、「手紙」「便り」が届くというアナログなことが、結果的に良かったとも言えそうです。
犬養先生は毎日毎日、数通の手紙、はがき、その他寄贈本など、郵便物が絶えない日常でした。しかし帰宅されるなり着物に着替え、郵便物に目を通し、寄贈本でも夕食までに斜め読みなさいます。そして「その日のうちに」お返事を書かれるのです。すべての人に・・・。
 昨年末、三重県松坂市で80年前の犬養先生の書簡が多数発見されました。お相手は田邉幸雄さんとおっしゃる万葉学者でした。取材の朝日新聞社の記者は開口一番「犬養先生はお手紙を書かれる方ですか?」と聞かれ、私は「はい、マメに書かれました」と即答し、一瞬記者が発見された書簡の値打ちに絶望感を抱かれたかもしれません。(笑) それくらい日常的に犬養先生が人間関係を大事にし、礼を重んじられたお人柄がよくわかります。多い時には犬養先生に年賀状が4000枚も届きましたが、2月末までかかってすべての方にお返事を書かれました。多くの犬養ファンがそれぞれに「犬養先生から頂いたはがき、手紙」を宝物として大事にされていることをよく伺います。その様子を私はずっと傍で見てきました。そして、その時から絶対に見習おうと決めて今日まで来てしまいました。急ぎの返信でない限り、先送りしたり、出しそびれたり・・・。私はだめだ。犬養先生のように毎日郵便物が届くわけでもなく、「相手に届いたことを伝える」それだけのことが、先生が亡くなられて20年以上経っても、いまだにまだ私はできていません。わかっているのに・・・。家族は毎年「自ら年賀状も出さずによく皆さんが三千代に出してださることだ」と感心していますが本当にその通りです。
余談ですが、犬養先生はお中元、お歳暮の令状も自ら書かれていました。帰宅されて「おかもちゃん、誰から何が届いてるか教えて・・・」といつものように座卓にスタンバイ。私が「ディオールの靴下が3足です」とか、「一保堂のお茶です」と伝えると、はがきにもそのまま、「このたびはディオールの靴下をお送りくださいまして・・・」とか、「一保堂のお茶をありがとうございました」とか、伝えたそのまま品物の中身も書いてしまわれるので、「先生、そんな具体的に書かなくても・・・」と言ったことがありますが、今から思えば、送り主は中身についても「正しく届いたこと」を知られたわけですし、結果良し??? 本当に可愛げのある先生でした。そんな先生の傍で学ばせて頂いたことはいっぱいあり、できるだけ実践しているつもりですが、唯一「相手に返信する」「感謝を伝える」ことの習慣がいまだできてない、できない私です。ずっとずっと心の奥底に感じている呵責です。
 もう一つの便りの余談は自慢話。犬養先生は私が卒業してもダジャレばかりのもあれば、旅行の仲間たちとの寄せ書きだったり、折に触れお便りをくださいました。写真はステイホームで整理していた時に出てきたはがき。ハワイからの便りです。実はその時のお土産のムームーもあり、着古しましたが今も処分できないで、衣替えのたびに出してはしまって・・・を繰り返しています。もう何年繰り返しているでしょうか。
 このたびは3年ぶりの通信で、新たな方への自己紹介となったり、旧交を温めたり、また亡くなられたり、高齢で施設に入っておられたり、転居も含めていくつかの音信不通にあい、後悔の念もありました。自分で文を書く、宛名がかける間に、大好きな人たちとのやりとりを自発的にしていきたいものです。できれば、パソコンではなく手書きでできたら・・・。
犬養山、頂上はまだまだ高く険しいです!!!
メルカリ出品のようでした。(笑)
 

母のDNA

3年ぶりに「昼下がり通信」を出した。思えば、「万葉うたがたり」って何? オカモは忙しそうだけど、何をしているの?と私の「多忙」の謎と、活動を発信していくことの使命を自覚してから、「昼下がり通信」を発行し始めた。第1号は平成9年(1997年)の9月1日発行であるので、今回の令和2年(2020年)5月15日発行の27号まで、約24年間続けてきたことになる。新たに受け取られた方はプライベートな紙面に戸惑われる方もおられるが、当初からのコンセプトは変わらず、➀1年に1度は発行する。➁今日までの私、家族、娘を支えてきてくださったコミュニティへの近況報告(教会であったり、友人であったり、家族であったり…)➂万葉うたがたり活動を通して、万葉歌、故地、行事の紹介など、柱は変わっていない。それで改めて私の一面を知って頂ければ幸いである。ただ、「昼下がり通信」に限らず、年々時間的な余裕と、体力・気力の衰えもあって、用事を先送りしてしまうことが多くなり、気になりながらも今回の通信は3年ぶりとなった。この時期の3年のブランクは残酷で、投函した便りの中に戻ってきたものもあり、亡くなられたことを知ったり、知らずに転居されていて音信が途切れたり、自らの不沙汰を後悔している。
そもそも私は「文章を書くこと」はそんなに嫌いではない。小学生の頃から作文をたびたび先生に披露して頂いたり、文集にも載せて頂いたり、思い返せば「書くこと」の経験は長い。我が家は、父はあまり文学的ではないが、母は読書家で高齢となった今も「読書」が最大の趣味である。お抱えの本屋さんから「新刊書」が出ると電話案内が届く御贔屓さんだ。母は書くことも達者で、私、弟(なかなか文章がうまい)、娘(機会があればきちんと自分の言葉で表現できる)が文章を「書く」ことの抵抗が少ないのは、母のDNAなのだろうと思っている。ほぼ娘の子育てをしてくれた母の「孫、つかさ」に対する文章をまとめた最初の冊子は、今から31年前に作った。娘が生まれた時刻が8月のお昼であったことから「真夏の昼下がり」というタイトルとなった。私の「昼下がり通信」のネーミングもそれから拝借した。
その後も60歳から10年間続けた兵庫県の市民オンブズマン活動をまとめた「夕映えの時」、そして趣味の短歌をまとめた「思い出のアルバム」。そして母がこれが最後と私に手渡した原稿は、3年前「結婚66周年を迎えて~老いの徒然に」という自分史だった。私にパソコンの打ち込みと冊子の制作を頼まれていたが、忙しさに紛れてまさに先送りしていた。ところが昨年の2月に盲腸癌になり手術をした。高齢でもあるので、それを機に私のギアが入り、結局少し時間はかかってしまったが昨年ようやく完成した。母に手渡した時はタイトルは66周年から68周年に変わっていた。(笑) 父も黙って読んでいた。この自分史の巻頭に掲げた母のポエム「待ち合わせ」がいつも切ない。幸い今は両親ともに元気でいてくれているが、日々の「老い」を止めることができないことが悔しい。この写真は3年前西宮の名次神社の前で撮ったが、今は母は車椅子、父は押し車がないと歩けない。

それぞれに別れの日を覚悟しながら一緒にいる両親の今を大事にしないといけないと思いつつ、悶々とする私がいる。昨年写真に使ったマンションのカサブランカが今、満開である。母が大好きなカサブランカを今年も見ることができた。再び冊子を手にしながら、両親の純愛を見届けていきたい・・・。

あれから1年・・・。

マンションの夏椿、「沙羅」が咲き始めました。足元にはくちなしも・・・。令和2年ももう半分が過ぎようとしています。
昨年の6月は娘の東京での「二人芝居」公演があり、応援方々観に行きました。初めての単独東京公演だという時期に、娘が体調を崩していたこともあり、気になっていたことも事実です。何事もなく無事に終えられて本当にうれしかったです。また、犬養万葉記念館では、犬養先生を支えて後継者とも目されておられた清原和義先生の命日月である6月を選んで23回忌の記念同窓会を開催させて頂き、武庫川女子大学の卒業生の方々とも交流を深められる機会ともなりました。そして、月末には壱岐島へ行くきっかけとなったクラブツーリズムのお誘いで、テレビ東京の「旅するお疲れさま」と言う旅番組の案内人にも加えて頂き、「足柄峠」へ行きました。
令和元年の6月・・・。まさに新たな時代の始動が感じられる毎日だったように思います。容赦ない時の流れを目の当たりにしながら、この「6月」からはきっと新たな展開があることでしょう。「新しい生活スタイル」というよな表現が多いですが、私は時を取り戻せたステイホームには感謝しています。スローライフは私たちが忘れかけていた?無理やり避けていた「家族」などの人間関係を見直してくれました。日々の生活の「不要不急」を精査してくれました。「日常のあたりまえのありがたさ」をより強く感じさせてくれました。原点に返ったところから、加速度を付けてダッシュですね。まさに「初恋を思うべし」
コロナウイルスを克服して前進あるのみだ!!!

日常に向けてスタート!

犬養万葉記念館も6月1日から通常開館となりました。犬養孝特別展示へのいざない、またあざさをはじめ、ささやかな館庭の初夏の風情を求めてご来館を楽しみにしています。ただ、まだ県外移動は自粛中ですので、今は奈良県内の方々中心のご案内となりますが・・・。若菜祭で断念した令和記念講演会をぜひ実現させたく、再度猪熊兼勝先生にお願いをいたしました。6月20日(土)に開催いたします。ただ、記念館は三密を避けるには会場が小さく集客が限られますので、記念館の定員と同じ40名収容の会場として、明日香村の社会福祉センター内(太子の湯と同所)のかんなびホールを使用させていただきます。ご理解頂いた教育委員会には感謝です。参加希望の方は、(感染経路確保のため)必ずお申し込みをお願いします。
おかも個人も6月からは講座が再開します。各グループの世話役の方々が、会場確保や、会場使用の試行錯誤に追われておられ、本当にありがたく、また再開の期待への責任も感じるところです。肝心の私はステイホーム中、自宅にどっぷり缶詰で過ごしたというより、コロナ以前も以後も変わらぬ実家と明日香村との行き来と、昼下がり通信の作業でそれなりに時間に追われましたので、そこからいよいよ「日常に向けて」の生活に、私自身のモチベーションを高めなければと焦り始めているところです。公私ともにブランクを経ましたが、それが新たなステップになることは間違いなく、(コロナ感染をいかに克服しながらということが最も大事ですが)O型おかも!いつもながら「前進あるのみ!」の能天気で日常へと突破していきたいと思います。

聖霊降臨の日、御ミサが再開。

コロナウイルスの世界的感染の猛威で、日本はおろか、世界の教会で集会ができない状態でした。信者が復活祭の御ミサに与れないことは前代未聞のことでした。
日本でも感染がピークを過ぎたという判断のもと、日常が少しずつ取り戻されつつあります。私の所属のカトリック仁川教会でも今日から公開ミサの連絡がありました。みなさん待ちかねておられたことと思います。
私はきょうは明日香にとどまっており、相変わらず御ミサに与っておらず呵責の思いです。
今日は特に「聖霊降臨の祝日」で、イエス・キリストの復活後、再び昇天されたのちに集まって祈りをささげる人たちの上に神からの「聖霊」が下ったという出来事のエピソードが新約聖書にあります。それを記念する祝祭日が今年は本日に当たります。大事な日をきっかけに教会も日常を取り戻せることを切に願います。
「聖母の騎士6月号に」新型コロナウイルス感染症に苦しむ世界のための祈りが掲載されていました。4月に日本カトリック司教協議会で認可されたお祈りです。せめてこの祈りを毎日唱えようと心を新たにしました。
聖霊降臨の日、おめでとうございます!

気づき。

思いがけないパンデミックは、世界中の常識や価値観、生活様式を変えようとしている。その真っただ中の生活にあってまず思うことは「言霊」である。日本人に緊急要請をする、国民に呼びかける時に「国語」がおざなりになっていないか。老親と生活する私だけでなく、高齢化社会の日本において老人たちが理解不明の「英語?言語?」説明。文字表記。日本語も専門的な言葉が多く、ほんとうに不親切だ。ドイツが最小限に感染が抑えられているのも、メルケル首相のメッセージによるところが大きいと誰もが評価している。わかりやすく語り掛け、かつ科学的根拠を示しつつ、母親のような説得が国民の心に響いたのだ。説得力は大阪府の吉村知事はすごい。信念に満ちた呼びかけ、語りかけは私たちの心に強く入ってくる。政治家たちが役人の書いた文書を読み上げ、自分の「言葉」を持たないメッセージには「心がない」のだ。たましひが働かないうわべだけの「言葉」。「言霊」がぬけがらとなってしまっている。思えば犬養先生が評価された功績は、まったく『万葉集』に興味のなかった人に平易な言葉でわかりやすく語られたことが、多くの人を万葉の世界に誘い、万葉ファンをたくさん生み出されたことによる。
東京都知事の小池さんんも育ちのよい言葉遣いであるが、具体的に話そうと頑張っているのはわかるが、やはり外国語が日常の会話も含まれる生活環境だけに、横文字言葉やあらたな造語も多い。仕方がないか。今は非常時の対応に実力を問われる時を過ごしている。私たち友人はひたすら彼女の頑張りにエールを送り、体調を心配し、早く日常の日々を取り戻し楽になってほしいと願っている。そしてこの頑張りが、以前彼女が「排除いたします」という言葉が、その言霊が非難を浴び、反対に彼女がその場から排除されることになったことも記憶に新しい。何気なく発した言葉であろうとも言葉は生きている。毎日の小池知事の言葉、説明、表現を意識しながら聞いている私。政治家として本当に都民目線で語り掛けているかどうか期待し祈っているのだ。頑張れラージ!
検察庁人事へのツイッター、連日の政治家の発信、医療従事者以外は振り回されるコメンテーターの話、私たちはあらためて「言葉の持つ力」に感心し、ひいては「言葉のたましひ」によくも悪くも惑わされる「心」を冷静に保っていたいものだ・・・。

さくらに感謝💛

コロナウイルスの今年は、「桜花」は憩い、癒し、慰め、励ましの花となりました。何年かたってから、「あの時の思い」として瞼に焼き付く今年の桜です。
わざわざお花見をしなくても移動したり、車窓から見る光景だけでも思わずうっとりと見とれるほどの素晴らしい桜花でした。年初から温暖な気候で開花時期も通常より早く、実際の見ごろも早いのではないかと心配されていましたが、雨風の機会も少なく、子供たちの入学式にも間に合い、いよいよ花吹雪が舞い始めるころとなりました。日本人の心がすさぶ中で唯一心が温まる神様からの贈り物だったように思います。
さくらには神が宿るとも言われますが、その魅力は「魔物」のように自粛規制の中、人々を呼び集めてしまい、皮肉な結果でもありました。
私は交野万葉学級という講座で講師をさせて頂いておりますが、きっかけは交野市私部西を流れる天野川にかかる逢合橋のたもとに建立された万葉歌碑がご縁です。揮毫をさせて頂き、2011年7月6日に除幕されました。以来、歌碑は私の分身として犬養先生の全国の万葉歌碑がそうであるようにように、「交野ケ原」が万葉故地として発信され、故地を守るシンボルでありたいと、私にとっても特別な場所となりました。七夕の時期にはイベントがここから始まりますので、開会式にはできるだけ参加をさせて頂いていますが、やはり年間この場所を訪れるのは限られます。歌碑建立にご尽力頂いた毛利さんは、これまでも季節に応じて様子を知らせて下さったり、草をひいたりごみを拾ってくださったり、見えないお世話をしてくださっていました。数日前、いつものように「逢合橋の歌碑と満開の桜です」と写真を送ってくださいました。日々の狭い視野の中で「そうだ、逢合橋の歌碑の桜も精一杯咲いて、橋を通る人たちの心を和らげているのだ」ということに気づき、毛利さんへの感謝と、桜の様子に涙が出そうになりました。大きく成長した素晴らしい桜の姿!
(歌碑建立の翌年の桜の写真がありました。こんなに成長していました。)

兵庫県、大阪府に緊急事態宣言が出ましたが、車で親元へ移動している日常ですので、いてもたってもいられなくなり、昨日足を延ばしました。
桜は散り始めましたが、花吹雪と桜のじゅうたんに趣を変え、私を待っていてくれました。今年もありがとうね。帰宅したころにはスーパームーンの月。
今年の七夕の頃には穏やかに夜空を見上げる時がきますように・・・。心から願っています。