久しぶりの嵐山

3年ぶりに京都「嵐山・嵯峨野」散策に参加しました。
私のサロンTSUBAICHIの中西講座「百人一首の世界」の野外講座でした。
12月の「紫式部、雲隠れの月」を講義して頂いたときに、もうすぐお正月→かるた→百人一首
と、話題が発展し、今年の1回目は、野外講座の企画からスタートしました。
目的は、ハコモノですが「時雨殿」という百人一首の館に行くこと。そして、周辺にある
百人一首の歌碑の建てられている公園を見学すること。そして、編者の藤原定家の屋敷跡と
思われる場所や、時雨亭の説を求めて、雪の残る常寂光寺、軒端の松の二尊院などを散策
しました。
歌碑は、亀山公園をはじめ、いくつかの場所に分かれた公園に、まああるわ、あるわ。
時間に限度があることと、あまり多く見ると印象が薄れるので(汗)、万葉集と共通する
5人の歌人はもちろん、紫式部や、石の形がユニークなものなど、それでも帰りの道々、
印象が不明確で、これは歌碑が多いせいではなく、私の頭の老化だ!と自覚しました。(笑)
そして、お昼は嵯峨野と言えば…湯豆腐!!!のランチも満足しました。
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愛宕山はうっすらと雪景色、正面の西宮の甲山と形が似た小倉山。
嵐山のシンボル、渡月橋をはさんで…のシーン。青空と北風と太陽と、気の置けない
お仲間たちと…楽しい文学散歩の1日でした。
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信じる!

仕事場兼住居を移ってから、ほぼ10か月が経つ。
新たに日常で出会った人たち。出会いは毎日毎日広がっていく。
先日、たまたま出かける前にドアホンが鳴り、宅配しか訪れる人のない塒に
ある人がやってきた。梅田でバッグをひったくられて、無一文になり、出会って
わずかな縁である私を頼って来られたのだ。ともかく、1万円お願いします…と。
以前親切心から、人に工面してあげたことがある。結局大金をだまし取られてしまい、
相手を信じていただけに、私はお金よりも自分の行為の不条理にいまだに納得ができない
部分が残っている。
その時に、救いや助けについては理解を示してくださるはず…と思って話したカトリック
教会の司祭も「お金の貸し借り」だけは絶対してはいけないときっぱり言われたことも
私には意外だった。弱者に対する行為と「お金」の問題は違うのだと思い知らされたこと
を思い出す。
両親は、もうすんでしまったことに対して、私を特別に責めなかったけれど、すっかり
信頼をなくしてしまった。そして、「お金を貸す時は、さしあげると思いなさい。」と言った。
私自身も万葉うたがたりの活動上、宵越しのお金は持たない?!主義ではないが、恒常的な
赤字会計ではありながら、なんとか過ごしてきたことは奇跡的かも。(汗)
その間、一度だけ、阪神淡路大震災の時、私と娘が利用していた西宮北口の自転車置き場の
数年来の顔なじみの管理人さんが、私たちも被災して失念の日々を送っていた自宅マンション
までやって来られた。自宅が全壊し、すべての生活を失ってしまい、途方に暮れた結果、
私たち親子を思い出されたのだと思う。
当座の生活費として、確か十万円貸してほしい…と言われた。私たち親子といつも笑顔で
挨拶を交わし、娘は、演劇部だったので、甲南女子高校の文化祭に来て頂いたこともあった。
私たちも被災してお金も心の余裕もない時だったが、こんな時にこそ役立ちたいと思った。
しかし、母が代わりにきっぱりお断りをして、その後、震災後の混乱と共に縁はなくなって
しまった。今でも娘と「あの時、少しでも協力してあげたらよかったのに…」と、母を
責めたことや、おじさんのことを思い出すと胸が痛む。
でも、母の態度があたりまえなのだろう。私は力もないのに助けてあげたいと思うことが
まず傲慢なのだ。今回もいろんなことが頭を過り、私は申し出にどうすればいいのか、
また神様に試されているような気がした。
「月末には返しますので、まず娘のところへ行ってきますので…。」
縁の薄い私のところへ…というのはよくよくのことだと思ってしまう私。
母の言葉通り、これは差し上げたことにしよう。そしてもし返してくださったら、役に
立てたということだ・・・と思い、お渡しした。胸がドキドキした。
そして、今朝、2週間後の今朝返しに来られた。「またあらためてお礼はさせて頂きます。」
と言われたが、私は、ともかくうれしてうれしくて、ほっとした。
過去の経験や失敗は教訓にはなるけれど、人の心に向かうことのむずかしさは毎度のことだ。よかったあ!
このことは、誰にも話せなくて、誰にも言えない私の秘密だったけど、結果オーライ!
みなさま、銀行の帰りを狙ってる人があることに、お気をつけくださいませ。
備前で頂いたカサブランカが連日大輪の花を咲かせている。香りも素晴らしい。
私の心の中も花が咲いたような、きょうは、さわやかな1日だった。

くじら企画「山の声」を見て。

娘の奨めと、遊劇体の村尾オサムさんが出演されることもあって、日本橋の
インデイペンデントシアターまで、芝居を見に出かけた。
日本橋はほとんど行ったことのない知らない地域で、家電などの電気街として、
独特の雰囲気の場所だった。秋葉原ともちょっと違うが、はやりのメイド喫茶も見つけた。
新聞にも話題作として、取り上げられていたこともあり、私も行きたいと思っていたので、
昨夜娘の方から「明日が千秋楽やけど、どうする?」と連絡があった。
明日香村の犬養万葉記念館のかるた会に行くのをやめて、芝居を見に出かけた。
娘から連絡があったのも、予約は満員だけれど、早めに行けばなんとかなるということで、
ずいぶん人気があるのだな、さすが話題の作品なのだ!と思っていたが、会場へ行ってみて
今回の様子がだんだんわかってきた。
1つは作、演出の大竹野正典氏の追悼公演だったこと。2つ目は、3作を追悼の演目として
去年の8月、10月に次ぐ、最後の機会だったこと。そのせいか、開場前から人があふれ、
会場の人の雰囲気がなんとなくあわただしく、熱い。消防法違反であろう人入りで、身動き
もできないほどの満員。そして観客の私は、芝居の前に大竹野氏の追悼の芝居であることを
初めて聞いた。
芝居は「山の声」と言う、実際の神戸のクライマー加藤文太郎氏を主人公とした山岳ドラマ
で、かつていくつも読んだ新田次郎さんの小説を思い起こすような、冬山の遭難の物語
だった。作者の大竹野さん自身が山登りをされる人でもあったことから、実際のモデルの
事件をベースに書かれたものであるが、登山の経験から描かれた部分もあったであろう。
2時間近い舞台は、遊劇体の村尾さんと、主役の戎家海老さんの二人芝居で、雪山が舞台
になっている。観客には、これから起こる「遭難」についてのドラマの行く先は見えるの
だけれど、その経過や、人間と自然が切なく、きびしく、悲しく重い。
私は今回、一般人が「山に登ること」の目的は、一体なんなのだろうと思った。
登山の途中や、達成した時の景観を見て、喜びや、自然に対する驚異と感動が生まれる。
その経験から、次は求めて目標や憧憬として、登山の目的になっていくのだろうと思う。
主人公の加藤氏だって、一人の「単独行」の寂しさや孤独感を感じながら、登山することの
無意味まで思いながら、登山していたなんて…。
加藤氏の劣等感や、集団に馴染めない逃避が、大自然の世界に向かわせたのか?
いつもなら、単独行で、自分を守るための周到な準備や読みが、親しい二人でパーテイーを
組んだ最後の時に遭難をしてしまう。それは、他人へのふとした甘えや、自信がスキと
なってしまうのか。あまりに皮肉である。
また大自然は、心を癒す魅力もあるだろうが、一瞬にして私たちを陥れる悪魔のような顔も
持っているのか。それとも残酷ではあるが、山を愛する人たちを山に神隠ししようとする
のか。
結果は「遭難死」という現実しか残らないが、愛する人や家族を残してまで、困難な山に
向かわせる「登山」の魅力は何なのだろうとあらためて考えた。
今日の芝居の主張で、社会で生きる「自分」の悩みや苦しみを癒してくれる行き先として
登山に向う加藤氏。そして費用がかかるので「単独行」にならざるを得ない現実。
登山の山中でいじめにも近い、マナーと言う名のリアルな人間関係。
単独行で得られなかった感動の共有の機会が、遭難に結びついた皮肉。
雪山で記憶が薄れていく時の幻想の世界が、本人にとって往生際の幸せであること。
それらの場面を見ながら、登山は健康的で男性的で、冒険心を満たすスポーツ的な印象を
持っていたが、きょうは「そんなにまでして、どうして登山するのやろ」と、登山者の心の
葛藤など、今まで考えたこともないような、登山の断面に触れ、これが、大竹野さんの
世界観なのかもしれないと思った。
大竹野さんは、2008年に、京都の日本海で水死と言う、不慮の事故で48歳の若さで
逝去された。娘も面識があったようで、期待される作家・演出家であったようだ。
その追悼が、大がかりに3つの作品の上演と言うことで、きょうが最後だった。
演劇界での高い評価と裏腹に、亡くなった時に、新聞の三面記事で単なる会社員の
水難事故死として扱われたことが、演劇関係者の中ではたまらなく悔しかったようだ。
インターネットを検索すると、後に毎日新聞が、劇作家・演出家として訃報記事として
訂正、あらためて掲載したことで、大竹野さんの尊厳を守られたことに関係者はとりあえず、
納得されたようだった。そんな有能な劇作家の作品上演だった。
永山則夫や、宮崎勤や、事件を素材にして戯曲を書かれるシリアスなタイプ。
今日観た「山の声」も、帰宅して家に入るまで、登場人物の中村さん、吉田さんのことを
考え続けた。友人の死を見届け、置き去りにしても前進する悲しさはなんなのだ。
山で語り合った本音の会話は、山の神が封印してしまうのだろうか。
「山」は、やさしいのか、冷たいのか。
そうそう、昨年テレビ録画した「剣」の映画があった。
「山の声」も剣岳が舞台だった。いよいよ見ようと思っている。

備前ファミリー

1月18日はサロンの椿市の日でしたが、山寺さんと二人で、備前うたがたりの会の
新年会に出かけました。
はじめは、いつもお世話をして頂く役員の方々とで、新年のお顔合わせを…と
言うくらいの気持ちでしたが、せっかくなら…と会員の方々に声をかけてくださり、
なんと30人近い集会となりました。
講座はいつも備前市市民会館集会室ですが、新年会ということで、会場は、お世話役の
平野さんのお自宅、妙圀寺に集合させて頂きました。
かつて、万葉うたがたりコンサートも2回させて頂いております。
備前市の由緒ある日蓮宗のお寺です。お上人様のやさしい笑顔や、奥様の心配りの
ある、雰囲気のよいお寺です。
新年会ですので、みなさんとの懇親を目的に「ウサギ年」にちなんで、『万葉集』も
含めて、うさぎの出てくる歌をみなさんで歌ったり、皆さんに自己紹介をして頂きました。
昭和30年の最初の合併で備前市となった頃から、それ以降の備前市と、また再開発で、
地図が塗り換わり、今商店街の衰退の無念や、賑わいの生まれた瀬戸内市などの羨望や、
興味深く備前の変化を聞かせて頂きました。食べきれない豪華お弁当や、抹茶にお正月の
花びら餅のお相伴もあり、至れり尽くせりの楽しいひとときに感謝感激でした。
写真の花は、私たちの歓迎のために兵庫県の奥の播磨新宮の山から準備してくださった、
「つらつら…やぶ椿」です。また、私の万葉うたがたりの三十周年を祝って、会から私の
大好きなゆりの花束をプレゼントしてくださいました。なんてうれしかったことか…。
早速、きょうサロンで生けて、「みんなで歌おう、懐かしの歌」カルチャーがあり、
多くの方々に見て頂く事ができました。恵理子さん、平野さんありがとうございました。
みなさんのご親切やお人柄に甘えながら、10年以上続いてきた会ですが、私も本音で、
自然体でお付き合いできる素敵なグループです。この絆を大事にしていきたいと心から
思います。次回は、4月5日に「かたかご」バス旅行を予定しています。『万葉集』の
「花」の引き出しを開けて頂いて、家持とかたかごと、素晴らしいかたかご群生地の体験を
して頂きたいともくろんでおります。皆様、乞う、ご期待!
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「さ百合花 ゆりも逢はむと 思へこそ 今のまさかも 愛しみすれ」
                           大伴家持 巻18・4088
「後(ゆり)にでも逢いたい…」大好きな百合の花、ありがとうございました。

16年前の追憶

極寒の5時46分に、各地の追悼に集まられた方々のニュースを見た。
年を重ね、天候にも左右され、もう現地にいかなくても追悼することは許されるのでは
ないか。遠藤周作の「沈黙」ではないけれど、神様はそう言ってくださるのではないかと
思う。12月のコンサートでも、震災15年目ということで、震災の震源地である淡路島の
野島が万葉歌に詠われた「別れたくないタンゴ」を演奏した。
私も被災者の一人として、忘れることのできない悲しい残酷な思い出だ。
16年前の前日のことを思い出した。娘が高校二年生で、いよいよ大学受験の年を迎え、
成人式の連休を利用して、二人で三宮に出かけた。
現役予備校の下見に、代々木ゼミナールへ行った。翌日の地震では、隣の柏ビルが
ものの見事に垂直に倒れ、あとあとのテレビ映像でも何度も放送され、前日のあまりの
身近な記憶に、唖然とした。帰宅して半日も経たない後、三宮の町の壊滅的な状況が
信じられなかった。
後日、娘と、あの日は偶然に私たちが神戸の町にお別れに行ったみたいやね・・・と話したが、
それ以来16年?いまだ、私は仕事以外、買い物も、食事も神戸へ出かけることはない。
なんだか、神戸に対してトラウマができてしまっている。
復興の光イベント、ルミナリエにも行ったことがない。「一度行ったら感動するよ!」と
言われ続けながら、震災直後は私の生活に追われ、復興の光どころではなかったし、
県外や、物見遊山で来る人々に、神戸の街は混乱であふれかえり、へそまがりな私は
ルミナリエに余計否定的になってしまった。いまだに行きたい気持ちは全く起こらない。
それも、被災者の心の本音のひとつでもあると思っている。
娘は昨年、小学校の演劇のワークショップで、神戸市の長田の小学校から依頼を受けて、
「被災地」からの発信ということで、子供たちと演劇作りを通してかかわった時に、
当の子供たちが、震災のことを知らないことに、驚きを超えてショックだったと私に
話してくれた。3回シリーズのワークショップだったそうで、まず「次回までに家族のだれ
でもいいから地震のことをきいてきて!」と宿題を出したと言う。
そこから地震や、安全や人との助けあいや…話は発展し、みんなが「地震や震災を考える」
テーマに従い、学んだことだろうが、長田と言うもっとも被害の甚大な地域でさえ、後に
生まれた子供たちにはあのときのことがもう伝えられていないことに娘はびっくりした
ようだし、私も現実ってそんなものなのかなあと言う気持ちがした。
戦争にこりごりの人たちは、これから家族が安全に幸せに暮らすことだけに執着し、わざと
過去や悲しみや苦しみから目をそむけて戦後を乗り切ってきたことと同じような感覚かも
しれない。「言い伝えること」の教訓は、昔も今もどこか、置き去りにされているような
気がする。
もちろん、あのような不幸には二度と会いたくないという気持ちは同感であるが、それが
過去の記憶として消えていくことの不幸は、もっとも悲しいことだ。
1月17日のような地震が起こりませんように…。もし日本のどこかで起こった時に、私たちの
被災の教訓が少しでも生かされますように…願わずにはいられない。

トイレの神様

忙しいということで、世間の話題から遠のくことは、悲しいことだ。
12月31日の紅白歌合戦で、はじめて植村花菜の「トイレの神様」を聞いた。
題名は知っていたが、「トイレの花子さん」を想像させるような、内容は「けったいな
歌???」と違うのかな…と思っていたが、初めて聞いて、涙あふれる感動の歌だった。
歌の内容が素晴らしいというのではない。誰もが持っているおばあちゃんと孫の関係が、
たまらなくなつかしいのだ。歌を聞きながら、成長していく私。子供の時とは違う二人の
関係。それでもどこかで繋がっている、親子ではない特別の関係。
私も亡くなったおばあちゃんのことを思い出しながら聞いていた…。
昨日1月14日は、おばあちゃんの誕生日だった。小正月に生まれた!と言っていた。
平成14年の2月6日に亡くなって、もう9年が経とうとしている。
おばあちゃんには、孫が5人いた。私は初孫で、私の家族は祖父母と共に暮らしていたので、
物心ついたときから、結婚して家を出るまで一緒に過ごした。
祖母は旧家の「なかいとはん」だったので、私の母以上のお嬢さん育ち。
亡くなるまで、公衆電話も一度もかけたことがない、世間知らずのおばあちゃんだった。
でも恵まれた環境で、私が生まれた時から既にピアノがあった。
母が弾けないのに、おばあちゃんが、ピアノを弾いていた。
葬儀のミサの時、おばあちゃんへの最大の感謝にと思い、オルガン奏楽を引き受けた。
途中で、おばあちゃんがよく弾いていた「埴生の宿」も演奏した。
おばあちゃんは、私の笑い声が大好きだと言った。聞いていてつられて笑ってしまうって。
私が母に叱られて、家の外に出された時、必ずおばあちゃんが、助けに来てくれた。
「一緒にあやまってあげるから…。」と家に連れて入ってくれた。
子供のころは、母とおばあちゃんとの連携プレーができていたなんて、知らなかった。
タイミングよく現れるおばあちゃんは、正義の味方、月光仮面みたいやなと思ってた。
おばあちゃんによく歌を教えてもらった。数え唄だったり、遊び歌が多かったと思う。
その中で、いまでもなつかしく思いだすのが、「チャメコの一日」だ。
全曲は覚えていない。探偵ナイトスクープで教えてもらいたいと思うくらいだ。
すぐに浮かぶフレーズは「お椀の中には、私の好きな 卵のおつゆが入ってます」だけ。
「たまごのおつゆ」がすごく印象的だった。
小さいころから、明治生まれのおばあちゃんの腰巾着で、「家庭婦人」の豊かな経験が
ある私は、幸せだと思う。あら張りのお手伝いで、自宅の庭にほどいた着物に竹を刺して
ぶら下げていく。ゆりかごが一杯あるみたいだった。
昆布をはさみで切って、佃煮を作る。甘酒なども手作りで、発酵の様子が気持ち悪かった
けれど、木の箱に手ぬぐいをかけてあるのを何度ものぞき見した。
梅干しや、ラッキョウを漬けたり、垂水は魚が新鮮なので、生きてはねている小エビを
買って来て、いろんな話をしながら剥いてくれた。思い出すと高岡のしろえびみたい。
小さくてくちゃくちゃとなった小エビの天ぷらが大好きだった。
庭の水撒きをしたり、お風呂は外から燃やすのに、私も面白がって紙屑をくべた。
その頃、庭に雑草の「じゅず」がたくさんあって、鼠色のネックレスを作ってくれた。
七輪でお魚を焼いたり、今ではできないことを一杯経験させてくれた、と言うより、
私には、おばあちゃんの生活が興味津津で、一緒にいるととても楽しかったのだ。
8年間寝たきりで、不自由な晩年だったが、孫の中で私との絆が一番強かったと思う。
母(実の娘)よりも強かったような気がする。
おばあちゃんのピアノは、私にとってあたりまえの音楽ツールだったし、おばあちゃんの
音楽DNAを受け継いで、今の私があるのかな。
「トイレの神様」もそう、私もおばあちゃんとの思い出は、誰にも立ち入れない二人だけの
ものだ。いのしし年のおばあちゃん。元気だったら、今年で、100歳になったのね!

さようなら…。

世間のお正月気分の収まりかけた時期になって、訃報が続いた。
亡くなられたのは、万葉うたがたりの「大伴旅人」役の菊ちゃんこと、
菊谷高弘さんのお母さんだ。3年くらい闘病をされていたそうだった。
菊谷さんには、12月の私のコンサートの舞台にも遊劇体として、出演して
頂いた。きっとご家族で、不安な気持ちで年末年始を過ごされたことだろう。
享年68歳…。まだお若い。でも娘には「私もあと10年がんばれるかな」なんて。
10日のお通夜に引き続き、11日のお葬式にうかがったのは、西宮文化協会に尽力して
おられた空野啓佐さん。TSUBAICHIでも、西宮市、宮水学園のOBグループのお仲間を
集って、万葉に親しむひとときを計画してくださった。以前のブログにも書いているが、
西宮市の郷土史家とも言えるほど、歴史や文化に詳しく、中でも西宮えびす神社の
申し子のようだった。えびす神社のことから、神社の建物、鳥居の形式、えびす舞、
ひいては淡路の人形浄瑠璃支援や、えびす神社でも「お顔」は、特別の方だった。
それもそのはず、個人的に1月10日のえべっさんの日がお誕生日という縁を持っておられた。
それが、このたびのお別れ会で2度びっくり…。
1月5日の西宮えびす神社の新年恒例の「えびす舞」の奉納のさなかに倒れられた
そうだが、意識不明になられてからもその後、命の灯は続き、1月10日の、淡路人形
浄瑠璃の奉納の終わったころ、息を引き取られたと聞いた。
ご自身が、心にかけておられた行事が終わるまで…。また、えべっさんのお祭りの日に
生まれた空野さんが、同じ日に天国へ帰られると言う、奇遇な人生を終えられたのだ。
弔辞を読まれた、西宮えびす神社の吉井貞俊宮司は、「昭和8年1月10日生まれの喜寿を
1月10日で満願成就されためずらしい人生で、おめでたい」と言うような表現をされた。
私とのご縁は、空野さんに機会を頂き、何度か万葉講座をさせて頂いたが、その後、
私が個人的に地元西宮への興味を持っていることで、夙川の桜の見学や、西宮市の歴史
散歩にも誘って頂き、いろいろ学ばせて頂いた。
急なお別れだったが、ご家族によると空野さんは、後日、菩提寺のある北九州の若松で、
正式なご葬儀をされると言うことだ。実のご出身は万葉故地の福岡県の香春(かはら)で、
私も最近まで嘉摩万葉を学ぶ会で、何度か訪れた古代の交通路にあたる場所だ。
私が香春を知っていることに驚かれたが、また喜んでくださった。私の香春の知人の
お名前もご存知で、共通の話題に花が咲いたことを思い出す。
空野さんは、ご自身のふるさとがありて、住めば都だった?えべっさんと縁ある西宮に、
骨ではなく、心を埋めてくださったような方だった。
明るい空野さんは、ドラマチックな生涯を天国で自慢しておられるに違いない。
空野さんお大事なお仲間、西宮の謎史の会の方々とのご縁をこれからも大事にしなきゃと
思ったことだった。
昨年4月5日、兵庫県氷上郡のTSUBAICHI花の旅の時に、「桜博士」の空野さんに
お話して頂いている時の写真です。今年の夙川の桜もきれいに咲きますように…。
空野さん、ありがとうございました。

サロンの業務開始です!

新年、あけましておめでとうございます。
TSUBAICHIの看板娘のバニーちゃんから、ご挨拶を申し上げます。
偶然、ウサギ年のせいか、アンゴラウサギの毛並み色のオカモ・山寺です。
激動の2010年を終え、昨年の総括や、会計決算や、反省も越年してしまいましたが、
白紙で2011年を迎え、本日から新たな企画や、予定に着手です。
ワンパターンは性に合わないので、今年もチャレンジャー精神で、いろんなことを
展開させていきたいと望んでいます。
新年のホットニュースで、坂本信幸先生が、春から高岡市万葉歴史館の3代目の館長に
決まられました。私の敬愛してやまない、日本一の万葉の館に、何とうれしいことでしょう。
坂本先生も大伴家持と同じく、大和から5年間?下向されるのですねえ???
門下生となった私としましては、坂本先生が名実ともに、万葉研究者の中心的存在として
ご活躍されることを本当にうれしく誇りに思います。坂本先生、頑張れ!!!
私も元気が出てきました。ようし!私もまずは大学院を終えて、サロンをはじめ、
万葉うたがたり活動に専念できるようにけじめをつけながら次のステップにつなげたいと
思っております。
本年もどうぞよろしくお願い申しあげます。

あけまして、おめでとうございます!

娘がお運びさんのバイトでがんばっている京料理「ほんざわ」のおせち。
今年もお願いしました。これは一段で二人分です。
お重をあけて笑顔がこぼれる、この品目の多さと華やかさ!
贅沢な気分になります。
東京や、地方からも注文がありますが、今年は悪天候で運送が滞り、
ずいぶん遅れたとか。これは予想外のことですもんね!(汗)
娘が働いていて、普段の京料理もおすすめです。今は、かに、イノシシ、クエ!
誇りを持って働けたり、お店自慢ができるところで働けることは幸せだと思います。
娘は、賄いで栄養補給もさせて頂いているようですし…。(笑)
ちゃんと、取り箸もつけてくださっていました。行き届いてます…。
これでやっとお正月気分を楽しませていただきました。ごっつあんでした。
             
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