
「昼下がり通信」雑感その2. 私のきまぐれで3年ぶりに投函したにも関わらず、直後にメール、電話、そしてお便りと大変多くの方々からお返事を頂きました。一方通行でもともかく発信することにこだわったのですが、私のささやかな気持ちは宛名だけは「手書き」にしたことでした。返信は、私とのお付き合いの中での関係やお人柄を改めて知る機会ともなり、私にとって幸せなプレゼントとなりました。
この閉塞した時期であったことで、「手紙」「便り」が届くというアナログなことが、結果的に良かったとも言えそうです。
犬養先生は毎日毎日、数通の手紙、はがき、その他寄贈本など、郵便物が絶えない日常でした。しかし帰宅されるなり着物に着替え、郵便物に目を通し、寄贈本でも夕食までに斜め読みなさいます。そして「その日のうちに」お返事を書かれるのです。すべての人に・・・。
昨年末、三重県松坂市で80年前の犬養先生の書簡が多数発見されました。お相手は田邉幸雄さんとおっしゃる万葉学者でした。取材の朝日新聞社の記者は開口一番「犬養先生はお手紙を書かれる方ですか?」と聞かれ、私は「はい、マメに書かれました」と即答し、一瞬記者が発見された書簡の値打ちに絶望感を抱かれたかもしれません。(笑) それくらい日常的に犬養先生が人間関係を大事にし、礼を重んじられたお人柄がよくわかります。多い時には犬養先生に年賀状が4000枚も届きましたが、2月末までかかってすべての方にお返事を書かれました。多くの犬養ファンがそれぞれに「犬養先生から頂いたはがき、手紙」を宝物として大事にされていることをよく伺います。その様子を私はずっと傍で見てきました。そして、その時から絶対に見習おうと決めて今日まで来てしまいました。急ぎの返信でない限り、先送りしたり、出しそびれたり・・・。私はだめだ。犬養先生のように毎日郵便物が届くわけでもなく、「相手に届いたことを伝える」それだけのことが、先生が亡くなられて20年以上経っても、いまだにまだ私はできていません。わかっているのに・・・。家族は毎年「自ら年賀状も出さずによく皆さんが三千代に出してださることだ」と感心していますが本当にその通りです。
余談ですが、犬養先生はお中元、お歳暮の令状も自ら書かれていました。帰宅されて「おかもちゃん、誰から何が届いてるか教えて・・・」といつものように座卓にスタンバイ。私が「ディオールの靴下が3足です」とか、「一保堂のお茶です」と伝えると、はがきにもそのまま、「このたびはディオールの靴下をお送りくださいまして・・・」とか、「一保堂のお茶をありがとうございました」とか、伝えたそのまま品物の中身も書いてしまわれるので、「先生、そんな具体的に書かなくても・・・」と言ったことがありますが、今から思えば、送り主は中身についても「正しく届いたこと」を知られたわけですし、結果良し??? 本当に可愛げのある先生でした。そんな先生の傍で学ばせて頂いたことはいっぱいあり、できるだけ実践しているつもりですが、唯一「相手に返信する」「感謝を伝える」ことの習慣がいまだできてない、できない私です。ずっとずっと心の奥底に感じている呵責です。
もう一つの便りの余談は自慢話。犬養先生は私が卒業してもダジャレばかりのもあれば、旅行の仲間たちとの寄せ書きだったり、折に触れお便りをくださいました。写真はステイホームで整理していた時に出てきたはがき。ハワイからの便りです。実はその時のお土産のムームーもあり、着古しましたが今も処分できないで、衣替えのたびに出してはしまって・・・を繰り返しています。もう何年繰り返しているでしょうか。
このたびは3年ぶりの通信で、新たな方への自己紹介となったり、旧交を温めたり、また亡くなられたり、高齢で施設に入っておられたり、転居も含めていくつかの音信不通にあい、後悔の念もありました。自分で文を書く、宛名がかける間に、大好きな人たちとのやりとりを自発的にしていきたいものです。できれば、パソコンではなく手書きでできたら・・・。
犬養山、頂上はまだまだ高く険しいです!!!

投稿
マンションの夏椿、「沙羅」が咲き始めました。足元にはくちなしも・・・。令和2年ももう半分が過ぎようとしています。
昨年の6月は娘の東京での「二人芝居」公演があり、応援方々観に行きました。初めての単独東京公演だという時期に、娘が体調を崩していたこともあり、気になっていたことも事実です。何事もなく無事に終えられて本当にうれしかったです。また、犬養万葉記念館では、犬養先生を支えて後継者とも目されておられた清原和義先生の命日月である6月を選んで23回忌の記念同窓会を開催させて頂き、武庫川女子大学の卒業生の方々とも交流を深められる機会ともなりました。そして、月末には壱岐島へ行くきっかけとなったクラブツーリズムのお誘いで、テレビ東京の「旅するお疲れさま」と言う旅番組の案内人にも加えて頂き、「足柄峠」へ行きました。
令和元年の6月・・・。まさに新たな時代の始動が感じられる毎日だったように思います。容赦ない時の流れを目の当たりにしながら、この「6月」からはきっと新たな展開があることでしょう。「新しい生活スタイル」というよな表現が多いですが、私は時を取り戻せたステイホームには感謝しています。スローライフは私たちが忘れかけていた?無理やり避けていた「家族」などの人間関係を見直してくれました。日々の生活の「不要不急」を精査してくれました。「日常のあたりまえのありがたさ」をより強く感じさせてくれました。原点に返ったところから、加速度を付けてダッシュですね。まさに「初恋を思うべし」
コロナウイルスを克服して前進あるのみだ!!!
思いがけないパンデミックは、世界中の常識や価値観、生活様式を変えようとしている。その真っただ中の生活にあってまず思うことは「言霊」である。日本人に緊急要請をする、国民に呼びかける時に「国語」がおざなりになっていないか。老親と生活する私だけでなく、高齢化社会の日本において老人たちが理解不明の「英語?言語?」説明。文字表記。日本語も専門的な言葉が多く、ほんとうに不親切だ。ドイツが最小限に感染が抑えられているのも、メルケル首相のメッセージによるところが大きいと誰もが評価している。わかりやすく語り掛け、かつ科学的根拠を示しつつ、母親のような説得が国民の心に響いたのだ。説得力は大阪府の吉村知事はすごい。信念に満ちた呼びかけ、語りかけは私たちの心に強く入ってくる。政治家たちが役人の書いた文書を読み上げ、自分の「言葉」を持たないメッセージには「心がない」のだ。たましひが働かないうわべだけの「言葉」。「言霊」がぬけがらとなってしまっている。思えば犬養先生が評価された功績は、まったく『万葉集』に興味のなかった人に平易な言葉でわかりやすく語られたことが、多くの人を万葉の世界に誘い、万葉ファンをたくさん生み出されたことによる。
東京都知事の小池さんんも育ちのよい言葉遣いであるが、具体的に話そうと頑張っているのはわかるが、やはり外国語が日常の会話も含まれる生活環境だけに、横文字言葉やあらたな造語も多い。仕方がないか。今は非常時の対応に実力を問われる時を過ごしている。私たち友人はひたすら彼女の頑張りにエールを送り、体調を心配し、早く日常の日々を取り戻し楽になってほしいと願っている。そしてこの頑張りが、以前彼女が「排除いたします」という言葉が、その言霊が非難を浴び、反対に彼女がその場から排除されることになったことも記憶に新しい。何気なく発した言葉であろうとも言葉は生きている。毎日の小池知事の言葉、説明、表現を意識しながら聞いている私。政治家として本当に都民目線で語り掛けているかどうか期待し祈っているのだ。頑張れラージ!
検察庁人事へのツイッター、連日の政治家の発信、医療従事者以外は振り回されるコメンテーターの話、私たちはあらためて「言葉の持つ力」に感心し、ひいては「言葉のたましひ」によくも悪くも惑わされる「心」を冷静に保っていたいものだ・・・。
コロナウイルスの今年は、「桜花」は憩い、癒し、慰め、励ましの花となりました。何年かたってから、「あの時の思い」として瞼に焼き付く今年の桜です。
わざわざお花見をしなくても移動したり、車窓から見る光景だけでも思わずうっとりと見とれるほどの素晴らしい桜花でした。年初から温暖な気候で開花時期も通常より早く、実際の見ごろも早いのではないかと心配されていましたが、雨風の機会も少なく、子供たちの入学式にも間に合い、いよいよ花吹雪が舞い始めるころとなりました。日本人の心がすさぶ中で唯一心が温まる神様からの贈り物だったように思います。
さくらには神が宿るとも言われますが、その魅力は「魔物」のように自粛規制の中、人々を呼び集めてしまい、皮肉な結果でもありました。
私は交野万葉学級という講座で講師をさせて頂いておりますが、きっかけは交野市私部西を流れる天野川にかかる逢合橋のたもとに建立された万葉歌碑がご縁です。揮毫をさせて頂き、2011年7月6日に除幕されました。以来、歌碑は私の分身として犬養先生の全国の万葉歌碑がそうであるようにように、「交野ケ原」が万葉故地として発信され、故地を守るシンボルでありたいと、私にとっても特別な場所となりました。七夕の時期にはイベントがここから始まりますので、開会式にはできるだけ参加をさせて頂いていますが、やはり年間この場所を訪れるのは限られます。歌碑建立にご尽力頂いた毛利さんは、これまでも季節に応じて様子を知らせて下さったり、草をひいたりごみを拾ってくださったり、見えないお世話をしてくださっていました。数日前、いつものように「逢合橋の歌碑と満開の桜です」と写真を送ってくださいました。日々の狭い視野の中で「そうだ、逢合橋の歌碑の桜も精一杯咲いて、橋を通る人たちの心を和らげているのだ」ということに気づき、毛利さんへの感謝と、桜の様子に涙が出そうになりました。大きく成長した素晴らしい桜の姿!
(歌碑建立の翌年の桜の写真がありました。こんなに成長していました。)

兵庫県、大阪府に緊急事態宣言が出ましたが、車で親元へ移動している日常ですので、いてもたってもいられなくなり、昨日足を延ばしました。
桜は散り始めましたが、花吹雪と桜のじゅうたんに趣を変え、私を待っていてくれました。今年もありがとうね。帰宅したころにはスーパームーンの月。
今年の七夕の頃には穏やかに夜空を見上げる時がきますように・・・。心から願っています。


第39回MBSラジオウオークは、コロナ感染不安で、初めてのスタジオ発信となり、アナウンサーの現地リポートで、スタジオからは猪熊先生、上野先生、西山先生のトークが交わされました。イベント中止と聞いていたので、気にも留めずいたところが、ラジオでの放送はあると知り、慌てて告知をしたり、私もパソコンを開いて(ラジコ)聞く準備をしました。コーナーに分けられていた第4部は「今までのラジオウオークを振り返る」というテーマだったので、「犬養孝先生」が話題になるだろうと楽しみにしていました。期待通り初回のオープニングや先生の朗唱、「一日の終わり」など、犬養先生のお人柄を思い起こす場面の切り取りに胸を熱くしながら聞き入りました。
犬養先生の出演は平成9年が最後となられましたが、実はその日に脳梗塞の症状が出ておられました。平成10年も出演のオファーがありましたが、犬養先生が弱っておられたので「ラジオウオークは中止になりました」とうそをついて出演を止めました。でも犬養先生はその時期が近くなると、気配を感じられたのか「ラジオウオークに行かなくてもいいの?」とお尋ねがあり、再び「中止になりました!」と言ったもののドキドキしたものでした。犬養先生のお気持ちも察して、3月になってから、「先生、明日香村へ行きましょう!」と私と二人きりで、愛子さんにお弁当を作って頂き、車いすを押して明日香村へ行ったことが、先生の明日香行の最後となられました。この日のことは私も何度か文章にも書いていますが、この写真がそのときのものです。出会ったのはお訪ねした関村長と川原寺の先代の扇谷夫人。誰がシャッターを押してくださったか記憶にないのですが、この写真は川原寺の犬養万葉歌碑です。背景が橘寺。今は周辺の木も伐採されてこの風情はすっかり変わりました。貴重な原風景(平成10年の)になりました。来年は第40回。15回の打ち上げを終えた時に「今回が最後と聞いてましたが、なんだか来年もあるみたいですね。」と先生と共に笑ったことが思い出されます。犬養先生がご存命の時はすべて私も参加させていただきました。付き添いが主でしたが、何度か「万葉うたがたり」で出演もさせて頂きました。放送を聞きながら、時の流れを感慨深く思い起こしています。
平成十年夏、まほろばの会などで黛敏郎さんや犬養先生とともに講演活動を行ったり、公私ともに親しくされていた高田好胤さんが逝去された。横浜一中(神中)時代の教え子だった黛さんを前年に見送られた上、すでに心身ともに弱っておられた犬養先生がよりショックを受けられるのでは・・・と話題にするどころか、私たちは翌日の朝刊も隠して何事もなかったかのように時をやり過ごした。 ・・・つもりだったが、一ヶ月以上も経ってから「好胤さんも亡くなってしまったね」とポツンとおっしゃったのを聞いて、驚くよりより先生の悲しみの深さを知った。
その秋、入・退院されたり、自宅でもベッドの生活となられた。先生の体調が日々不安定な中、例年ならば私は犬養先生に随行して出かける富山県高岡市の万葉まつりだったが、一人で参加することとなった。出発前日に病床の犬養先生を訪ね、耳元で出かけることを伝えて心を残しての出立だったが、あとで家人の方が、亡くなられる直前まで「今、オカモが高岡に行ってますよ」との呼びかけに反応されたと聞いた。きっと最後まで心は万葉故地に向いておられたのだろう。忘れもしない、万葉まつりの二日目の午後一時半、私は高岡市万葉歴史館の屋上庭園で犬養先生の「立山の賦」の歌碑を見ていた。犬養邸から着信が入り万事休す。犬養門下では示し合わせて万葉まつりが終るまで公表しないことで平静を保っていたが、夜の「故地交流会」の会食中に、訃報を知られた中西進先生が公表され、会場中に重苦しい空気が流れた。私は万葉まつりが終わるなり帰宅し犬養先生と対面した。熊本五高の浴衣姿で床についておられた先生に、最後の最期まで付き添えなかったことを思うと今でも残念でならないが、私が高岡に行ったことを先生は喜んでくださっていたのだと信じている。そして、通夜の日、十月五日はなんと明日香村では中秋の観月会の日だった。教え子の何人かは、先生とのお別れは飛鳥で・・・と通夜・葬儀には参列せずに飛鳥で月を臨みながら犬養先生を偲ばれた。あまりにドラマチックだったが、犬養先生を送り、偲ぶにはもっともふさわしいような気がした。
昨日は、平成30年10月3日。ご自宅でもお祀りなさっていた。私たちの犬養先生は永遠です・・・。

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五島市(長崎県)三井楽町で毎年行われている「三井楽万葉まつり」が、今年は特別イベントとして「全国万葉フォーラム」inみいらく2018が開催されました。私は万葉うたがたりコンサートの出演依頼を頂き、出演者として演奏のための個人的な「旅」が許されていましたので、宿は何度もお世話様になっている定宿の三井楽町の五島サンセットユースホステルにお願いしました。

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何度もお世話になっておりながら、夕食前に周辺を散歩をして発見。久保勘一氏の碑と対面。参議院議員から長崎県知事に転進された政治家クボカンは、三井楽町のご出身。当時の首相が佐藤栄作氏という頃なので、明日香村の特別故地保存法に東奔西走されていた犬養先生もクボカン氏をご存じだったことと思う。この銅像のすぐ後ろに多目的ホールが建てられているが、今のサンセットユースホステルも、福江島にユースホステルの誘致をされた時に、決まりかけていた福江ではなく、出身地の三井楽に!というクボカン氏の鶴の一声があったようだ。今更に三井楽町の誇るべき政治家のことを学び、ユースホステルの歴史を偲んだ。
今ユースホステルは、松本正樹さんの娘さんご夫婦が管理、運営されているが、オーナーの松本さんこそ、かげに日向にお客様を大歓迎してくださる「三井楽愛」にあふれた方だ。限られた時間を過ごす旅人のために、時間を惜しみ自らの車で三井楽町の魅力あふれる箇所に案内してくださる、本当に頭が下がる民間大使だ。故人となられた高岡市の尾竹睦子さんと重ね合わさった。行政力だけでは町つくりや地元発信は無理だ。おらが故郷を心から愛し、誇り、その姿が私たち旅人に納得と共感を呼ぶのだ。
今回は、出演準備で私は会場に残ったが、うたがたり会の仲間たちが飛び出して行き、松本さんのおかげで有意義な散策をさせていただいた。柏崎の遣唐使の母の歌の歌碑を見て、臨場感にうたれ、うたがたりコンサートで歌う前に現地で涙が出たという未歩ちゃん。何よりの体験だったと思う。

ユースホステルでは、初日に五島牛のバーベキューを賞味したり五島うどんを味わったり、そして2日間我が家のように楽しく過ごさせていただいた。ホストペアレンツの裕貴さん、チノくん、本当にありがとうございました。松本さん、またきっと来ますね。

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フォーラムの翌日、三井楽町の浜窄小学校では、来年三井楽小学校に統合前の5人だけの小学生の最後の運動会。私たちを福江港に見送ってくださったあと、大急ぎで最後の機会を見に行かれたという。松本さん、お疲れさまでした!
8月1日を迎えました。いよいよ告知を開始することにしました!
予定よりは1年近く遅れてしまいましたが、久しぶりに万葉うたがたり活動の作品CDをリリースいたします。
途中、「高岡旅情完成版」や「明日香ピックアップバージョン版」や、時に応じた制作もいたしましたが、フルスタイルのCDは、2009年の富士山ジャケットの「万葉のこころを歌う」以来、なんと9年ぶりになります。1年近く遅れた結果、収録曲も二転三転し、録音してくれたメンバーも戸惑ったことと思いますが、今の私の「テーマ」優先としました。「メッセージ」というタイトルをつけた通り、「万葉歌を通して、訴えたかった思い」です。没後20年を迎える犬養先生のみずみずしい万葉歌の魅力。東北大震災の津波で壊滅的な打撃を受けられた多賀城を訪れ、多賀城万葉の会のかたに、来年こそはこの地でともに「桜」を見ましょうと応援歌として歌わせていただいた「櫻花」。万葉の母、尾竹睦子さんへの思い出と追悼にささげた歌。「始めに言葉ありき・・・」とヨハネの福音書にもあるように、言葉の持つ力、霊力、言霊(ことだま)への信頼により、よきことを願う、幸はふ国へと歌うのは、まさに現代を生きる私たちが日本の未来に対して心から願うことでもあります。交野市の逢合橋で私が万葉歌を書かせていただいた歌碑ができましたが、今後も地元のシンボルとして発信し続けたい万葉歌碑であり、もちろんテーマソングも作りました。などなど・・・。
制作が遅れたのは、雑用により集中した時間がとれなかったことが原因ですが、このたび収録できなかったものもあり、また、私自身が万葉うたがたりの歩みを確認したかったこともあり、作品の「音源化」は今後も引き続きすすめていく予定です。
『万葉集』って楽しい♪・・・気持ちになってくだされば幸いです。

明日香村の森川裕一村長が就任されてから、7年目という。来秋にははや第3期目となる村長選挙があるそうだ。時間の経過は無情なほど早い。犬養先生のご縁で歴代の村長にお目にかかっているが、特に関義清前村長には、私が晩年の犬養先生に随行して行動していたことに加えて、犬養万葉顕彰会で「記念館建設」や、村内の犬養歌碑の建立などの諸案件にもオフィシャルな交流があり、長いご縁から今でも個人的にお親しくしていただいている。
森川村長とは面識もなく、犬養万葉記念館が閉館するかもしれないという情報を得て、驚いた私たちは、犬養万葉顕彰会の役員がそろって抗議と、説明を求めて2013年冬に明日香村に申し入れをした。その時にお目にかかったのが最初である。その時の森川村長の明日香村の村づくり構想のご説明は大変納得のできるもので、村長見解としては、犬養万葉記念館はなくてはならない、使命を持った館なのだとご説明を頂き、記念館存続のための努力を求められた私たちは、大いに共鳴をし、ある意味では戸惑いを感じながら、退席したことを思い出す。その時の押しかけで森川村長には「犬養先生」に対する意識が特に強まられたのではないかと思っている。そして翌年3月、「私」に晴天の霹靂でもあった記念館の指定管理者としての打診がはじまった。村長となられて2年目のことだ。
記念館についてもアートビレッジ会場として使用してくださったり、来春は飛鳥のアーチストの展覧会「匠の会」の開催など、明日香村の公的な行事にも活用してくださるようになり、記念館運営の側面協力もあり、私たちは民間サービスの立場でそれらにふさわしい対応ができるように努力しているつもりだ。そして村長がこの館の意義を熱く語ってくださったときのような、記念館のあるべき役割を果たし、しっかり存在意義を発信していきたいと思っている。

里中さんのお話の中で、「飛鳥ブランド」についての言及があったが、みんな客観的な立場の者が思う「宝のもちぐされ」的課題である。たまたま最近世間をにぎわせたパワハラ問題も村長がある意味「飛鳥」であるがための注目事案となったことを残念だと語られたが、よくも悪しくも「飛鳥」は日本の明日香村なのだ。
時代の変化とともに、世代交代をはじめ、役場の新築・移転や、住宅開発・誘致、教育内容のレベルアップなどすべての面で明日香村も節目の時期を迎えておられる。問題は山積みだ。
森川村長のビジョンが実現するように、役場に従事する方の奮起を求める一方、明日香村民の理解と協力を大いに期待している。
報告会の後、里中さんとお目にかかれた。お忙しくて、今年生誕1300年記念にと依頼を受けた「大伴家持」を執筆される予定が大幅に遅れて焦っておられるそうだ。今年で70歳を迎えられると聞き、変わらぬ女性らしさとおだやかさの中に、どこにあれだけの作品群を描かれるパワーが潜んでいるのだろうと、私には少し励みになった。
森川村長の知恵・人脈・行動力がうまく発揮されることを願っている。
オーム真理教の凶悪犯罪に対して、死刑宣告を受けた半分の罪人が本日死刑執行された。
24年という歳月は、私たち阪神淡路大震災で被災したものにとっては、忘れられない時間だ。平成7年1月17日に震災が起こった。すべての報道が地震1色だったが、3月20日に地下鉄サリン事件が起こってからは、阪神淡路大震災の報道は水面下のものとなってしまい、国民の話題、注目がすっかり震災報道から切り替わったことを鮮明に覚えている。被災者の私たちはオーム事件のことよりも日々の生活に追われたが、サリン事件によって国民の関心があっという間に移っていった。その後、東日本でも熊本でも「ずっと忘れてはならない!」という呼びかけのフレーズが叫ばれるように、まさに新たな事件・話題がおこるたびに悲しいかな、人々の心はそちらへ誘導されてしまうのだ。
さて、犬養先生が被災されて、翌日の100基目の高松塚の歌碑除幕騒動のあと、1か月間橿原ロイヤルホテルで過ごされ、その後武庫川団地の阪大教え子のマンションに仮住まいされた。そして数か月たって、久寿川の家を建て直すまでどうぞ・・・と宝塚の仁川にあるやはり教え子の方の建てられた1軒家を借りて、住まわれた。そこでは最低限の生活で、犬養先生は何もすることがなくて(できなくて)、1日中テレビの前で過ごしておられた。阪大生が冗談で持ち込んだオーム真理教の雑誌が何冊かあり、熱心に読んでおられた。そして連日サリン事件後のテレビ報道を見ながら犬養先生の記憶力のすごさというか、なんと麻原率いる幹部や、インタビューなどに応える信者たちの「ホーリーネーム」をすっかり覚えておられたのだ。一緒にテレビを見ていた私に「あの人は・・・って言うんだよ!」と得意げに次々と教えてくださったときは、本当に犬養先生の好奇心と記憶力に驚いた。(ちょっと楽しそうだった) 仕事どころか、なにもできない環境にあって1日中椅子に座って無為に過ごされる姿が気になっていただけに、この衝撃的なオームの話題は犬養先生の連日の関心事となっていた。私だけが知っているエピソードかも???(笑)
あれから24年。阪神淡路震災もオーム真理教も地下鉄サリン事件もまったく知らない若者が増えていると聞く。ならば、70年以上前の太平洋戦争などは若者にとってもはや風化してしまってるのだろうか。それも恐ろしいことだ。









