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令和元年(2019)年11月17日、思いがけず壱岐市万葉公園開園50周年記念イベントにお招きいただいたことがご縁になりました。
よって高校野球選抜21世紀枠で出場された壱岐高校が身近です。
部員全員が島出身者。島内中学生の3割が野球部員という「島民的スポーツ」の一つだそうです。
選手の誰かが、この万葉公園で走りこんだり、トレーニングしてるかも・・・。思い出もご紹介しておきます。

私は本当にかけがえのない経験をさせていただいた幸運に心から感謝しかありません。それも犬養先生のおかげです。

平成22年(2010)に私の行動の一部となったオデッセイは、14年間の長きを経て、私のもとから新たに旅立っていった。
18万キロ近い距離を走り、私の強引な運転に何度も傷つきながら、そして「この車」はオカモでもあり、最も多く行き来したであろう明日香村では、車を見た人が私の訪問を確認する手段として、特別な存在感があった。万葉うたがたりのコンサートには楽器や機材を乗せ、また両親の介護中には車椅子や押し車もゆうに乗せることができた。私のため、家族のために活躍してくれた大好きな車だった。廃車覚悟だったが、オデッセイは海外での希望者が多いそうで第2の未来があると聞いた。2年前に父が逝き、父が買ってくれたこの車とも別れの時が来た。思い出をいっぱいありがとう! ありがとう私の相棒❤ 涙

高岡市万葉まつりの目玉イベント、「万葉集全20巻朗唱の会」も33回目だそうです。おそらく私は皆勤のはずです。(笑) 2年前からのコロナ禍が、この行事に新たなスタイルを生み出しました。そして、イレギュラーな3年目の今回は、いよいよ地元での万葉まつりの開催と、朗唱は動画参加の2本立てとして企画され、募集が始まりました。なかなか高岡万葉まつりや、朗唱の会に参加できない人もネットを通して全国展開し、かえって魅力発信の範囲が広がったように思います。

1年目は、高岡市も手探りで、「万葉を歌う」岡本三千代と万葉うたがたり会が協力させて頂くということで、私たちの出演はもちろん、全国に広がる犬養万葉ネットワークのお仲間をお誘いしたりして、無事に新たな企画は成功しました。そして去年はその経験をもとに、積極的に参加する自治体の万葉愛好者グループなどの参加も増え、コロナ禍の引き続く状況下、新たな盛り上がりで朗唱の会が開催されました。

そして今年、今また第7波のコロナ禍の状況にあって、ゆるがないひるまない高岡市は、現地での万葉まつり開催の準備を着々と行っておられることと思いますが、私たちも動画朗唱での参加に向けて準備を行っているところです。

私の関わっている万葉講座の方々に、いわば無理強い的なお誘いにもなりましたが、あとで絶対に参加してよかったと思われるはず!という信念のもと、今回は宝塚のコープカルチャーの方々にも参加して頂きました。

そして昨日です。交野が原万葉学級という50名規模の講座があるのですが、私が「逢合橋」の歌碑に関わらせていただいたおかげで生まれた「講座」で、いつの間にか50名という大所帯になりました。本当にありがたいことです。その大所帯で今回全員参加で万葉朗唱に参加しようということで、山上憶良の七夕歌の長歌に挑戦しました。そして、音読でもよかったのですが、オカモの「天の川慕情」を歌おうということで、講座生ラインで、歌詞や音曲の練習をし、昨日一度きりの本番に臨みました。

練習もばっちりで、まさかの出来栄えに感心しましたが、いよいよの本番。曲に合わせて全員がしっかり歌ってくださり、一緒に参加しつつその様子を見守っていました。途中だんだん胸が熱くなってきて、私の曲を講座生が全員で合唱してくださるなんて夢のような機会に恵まれたこと、本当に感動しました。うたがたりのメンバーでさえ、オカモの曲はむづかしいと言われることもあるのに、誰一人反対もなく、全員参加してくださったことに、私はなんて幸せ者なんだろうとしみじみ思ったことでした。この様子が高岡万葉朗唱のユーチューブに残ります。私の宝物の映像が残ることに喜びと感謝でいっぱいです。みなさん、ありがとうございました。

3年ぶりに「昼下がり通信」を出した。思えば、「万葉うたがたり」って何? オカモは忙しそうだけど、何をしているの?と私の「多忙」の謎と、活動を発信していくことの使命を自覚してから、「昼下がり通信」を発行し始めた。第1号は平成9年(1997年)の9月1日発行であるので、今回の令和2年(2020年)5月15日発行の27号まで、約24年間続けてきたことになる。新たに受け取られた方はプライベートな紙面に戸惑われる方もおられるが、当初からのコンセプトは変わらず、➀1年に1度は発行する。➁今日までの私、家族、娘を支えてきてくださったコミュニティへの近況報告(教会であったり、友人であったり、家族であったり…)➂万葉うたがたり活動を通して、万葉歌、故地、行事の紹介など、柱は変わっていない。それで改めて私の一面を知って頂ければ幸いである。ただ、「昼下がり通信」に限らず、年々時間的な余裕と、体力・気力の衰えもあって、用事を先送りしてしまうことが多くなり、気になりながらも今回の通信は3年ぶりとなった。この時期の3年のブランクは残酷で、投函した便りの中に戻ってきたものもあり、亡くなられたことを知ったり、知らずに転居されていて音信が途切れたり、自らの不沙汰を後悔している。
そもそも私は「文章を書くこと」はそんなに嫌いではない。小学生の頃から作文をたびたび先生に披露して頂いたり、文集にも載せて頂いたり、思い返せば「書くこと」の経験は長い。我が家は、父はあまり文学的ではないが、母は読書家で高齢となった今も「読書」が最大の趣味である。お抱えの本屋さんから「新刊書」が出ると電話案内が届く御贔屓さんだ。母は書くことも達者で、私、弟(なかなか文章がうまい)、娘(機会があればきちんと自分の言葉で表現できる)が文章を「書く」ことの抵抗が少ないのは、母のDNAなのだろうと思っている。ほぼ娘の子育てをしてくれた母の「孫、つかさ」に対する文章をまとめた最初の冊子は、今から31年前に作った。娘が生まれた時刻が8月のお昼であったことから「真夏の昼下がり」というタイトルとなった。私の「昼下がり通信」のネーミングもそれから拝借した。
その後も60歳から10年間続けた兵庫県の市民オンブズマン活動をまとめた「夕映えの時」、そして趣味の短歌をまとめた「思い出のアルバム」。そして母がこれが最後と私に手渡した原稿は、3年前「結婚66周年を迎えて~老いの徒然に」という自分史だった。私にパソコンの打ち込みと冊子の制作を頼まれていたが、忙しさに紛れてまさに先送りしていた。ところが昨年の2月に盲腸癌になり手術をした。高齢でもあるので、それを機に私のギアが入り、結局少し時間はかかってしまったが昨年ようやく完成した。母に手渡した時はタイトルは66周年から68周年に変わっていた。(笑) 父も黙って読んでいた。この自分史の巻頭に掲げた母のポエム「待ち合わせ」がいつも切ない。幸い今は両親ともに元気でいてくれているが、日々の「老い」を止めることができないことが悔しい。この写真は3年前西宮の名次神社の前で撮ったが、今は母は車椅子、父は押し車がないと歩けない。

それぞれに別れの日を覚悟しながら一緒にいる両親の今を大事にしないといけないと思いつつ、悶々とする私がいる。昨年写真に使ったマンションのカサブランカが今、満開である。母が大好きなカサブランカを今年も見ることができた。再び冊子を手にしながら、両親の純愛を見届けていきたい・・・。

平成十年夏、まほろばの会などで黛敏郎さんや犬養先生とともに講演活動を行ったり、公私ともに親しくされていた高田好胤さんが逝去された。横浜一中(神中)時代の教え子だった黛さんを前年に見送られた上、すでに心身ともに弱っておられた犬養先生がよりショックを受けられるのでは・・・と話題にするどころか、私たちは翌日の朝刊も隠して何事もなかったかのように時をやり過ごした。 ・・・つもりだったが、一ヶ月以上も経ってから「好胤さんも亡くなってしまったね」とポツンとおっしゃったのを聞いて、驚くよりより先生の悲しみの深さを知った。
その秋、入・退院されたり、自宅でもベッドの生活となられた。先生の体調が日々不安定な中、例年ならば私は犬養先生に随行して出かける富山県高岡市の万葉まつりだったが、一人で参加することとなった。出発前日に病床の犬養先生を訪ね、耳元で出かけることを伝えて心を残しての出立だったが、あとで家人の方が、亡くなられる直前まで「今、オカモが高岡に行ってますよ」との呼びかけに反応されたと聞いた。きっと最後まで心は万葉故地に向いておられたのだろう。忘れもしない、万葉まつりの二日目の午後一時半、私は高岡市万葉歴史館の屋上庭園で犬養先生の「立山の賦」の歌碑を見ていた。犬養邸から着信が入り万事休す。犬養門下では示し合わせて万葉まつりが終るまで公表しないことで平静を保っていたが、夜の「故地交流会」の会食中に、訃報を知られた中西進先生が公表され、会場中に重苦しい空気が流れた。私は万葉まつりが終わるなり帰宅し犬養先生と対面した。熊本五高の浴衣姿で床についておられた先生に、最後の最期まで付き添えなかったことを思うと今でも残念でならないが、私が高岡に行ったことを先生は喜んでくださっていたのだと信じている。そして、通夜の日、十月五日はなんと明日香村では中秋の観月会の日だった。教え子の何人かは、先生とのお別れは飛鳥で・・・と通夜・葬儀には参列せずに飛鳥で月を臨みながら犬養先生を偲ばれた。あまりにドラマチックだったが、犬養先生を送り、偲ぶにはもっともふさわしいような気がした。
昨日は、平成30年10月3日。ご自宅でもお祀りなさっていた。私たちの犬養先生は永遠です・・・。

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小池百合子さんが同級生であったことで、昨年来、取材のテレビ放送に何度か出演させて頂く機会を得ましたが、このたびは本当に犬養先生からのご褒美かなと思う偶然のチャンスでした。NHK大阪放送局の橋本ディレクターが「明日香村の桜」に焦点を当て、中継地を探しておられた候補に「石舞台の桜」も入っており、その資料を探して犬養記念館に昔の石舞台の様子がわかる写真・資料がないかどうかと、訪ねてこられたのです。ちょうど私も記念館に在館しており、犬養先生の万葉旅行の歴史では欠かせない明日香村の写真群、また伊藤銀蔵さんコレクションや、名写真も残っており自慢気に提供いたしました。昔は田んぼの中の石舞台古墳であり、桜も植わっていなかったことに非常に興味を持たれたようです。そして、大木の桜に加えて、平成15年に植樹をした新たな桜のオーナーの一人が私であることをお話したことから、結果出演させて頂く機会を得たのです。
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夏の暑い盛りに植樹をした様子です。この植樹も明日香村観光開発公社が設立されて30周年を迎えられた記念の事業として行われたもので、このとき私は公社の理事を拝命しておりましたので、いち早くこの情報を知ることができたことを今思い出します。限られた募集でしたので、あとで知らなかった・・・と悔やまれた方も多くおられ、うらやましがられました。私は2口のオーナーで、娘の名と、万葉うたがたり会の名を記念に札に刻んで頂きました。中には長野県だったか、四神のロゴを作られた方もおられました。次の春には小さいながらも花が咲きました。
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そして、毎年桜の成長を楽しみに石舞台にも訪れましたが、3年前に突然札が外されており、公社の方に抗議したことがあります。風雪にさらされながらでも自分の名前が付いた「桜」を見ることの喜びに対する思いやりのなさに、がっかりしました。今回もこの植樹の写真をもとに、橋本さんがオカモ桜を特定してくださいました。
そして、橋本さんから「中継の出演が可能かどうか」の打診でしたが、4月6日と予定された放送日まで、桜の開花も遅れた分石舞台の桜中継が実現いたしました。
伺いますと、関西エリアには放映されるとのこと、両親をはじめ、親しい友人に急いで連絡いたしました(笑)。前日には全国放送も可能になり、夕方のならナビでも・・・と放送枠が増え、当日午前5時半からのリハーサルに立ち会い、本番・・・という次第です。明日香村の桜の情報が全国に流れる中、村民でもない私が出演させて頂いたことが奇跡でした。
4月⒉日に若菜祭も無事終わり、犬養先生の生誕110年をみんなでお祝いした直後でしたので、きっと先生が「オカモちゃんありがとう」とご褒美をくださったのだと思います。今、記念館の館長を受けるまでの犬養先生に導かれてできた明日香村とのご縁。そして桜の植樹を通して明日香村での自分の証のような記念となるものを得たことに今更ながら感謝しています。
生中継であっという間でしたが、よい機会を頂きました。視聴していただいた皆様には心から御礼申し上げます。
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NHK奈良放送局の大川アナウンサーが担当してくださいました。いい声でさわやかな語り口。ありがとうございました。

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新年早々、明日香村の犬養万葉記念館勤務でスタートいたしました。

指定管理者となって、3年目に入りました。ラストイヤーにふさわしく?、犬養先生の生誕110年の節目となり、犬養万葉顕彰会で私が会長を務めているときに1年がかりで100年祭を行いましたが、それからもう10年です。そして明日香村をこよなく愛される犬養先生が甘樫丘に登って「お月見」をされるようになってから、万葉の明日香路に月を観る会として、1つの風物詩として続けられてきたお月見の会が今年で50回目となり、半世紀の歴史を刻みました。今年の中秋の名月は10月4日のようです。前日が犬養先生のご命日にもあたりますが、先生が亡くなられた平成10年の中秋の名月が10月5日でした。その日がお通夜でしたが、葬儀会館へ行かずに明日香村へ足を運び、犬養先生を偲ばれたかたが何人かあったことを知っております。先生のたましひはいつも飛鳥にある。そして大好きな明日香村でのお月見の時にはたましひもそこにあり・・・。犬養先生と心を共有したいという思いに打たれました。奇しくも中秋の名月の時期が非常に似通っているので、私も意識するところです。「オカモちゃん、第50回はお月さまが僕だと思ってね」とおっしゃっているような気がします。そして今年の国民文化祭の開催県が奈良県で、ちょうど秋ごろに行事が集中しますので犬養万葉記念館としても、お月見の会を中心に、万葉の歌音楽祭や、光の回廊参加など、特色あるイベントを定着させるべく、「勝負の年」と発言しております。ことだまにあやかって「いや重け吉事」。私たちにも皆様方にもいいことがいっぱいありますように・・・。

2016年9月16日の日記。
4月から始まった交野万葉学級も半年(前期)の一区切りに、地元の万葉歌碑を訪ねました。9月の半ばということで、暑さや熱中症の体調、また台風などの天候など不安要素もありましたが、おかげさまで当日は恵まれた快適な1日となりました。講座に参加されて慣れない上に、すぐに現地ウオーク・・・と未知との遭遇体験の方もあったと思われますが、みなさん和気藹々と親睦も含めて楽しい機会でした。現地については講座主催者の毛利さんが詳しくて、ウオークコースの設定や歌碑の建立の経緯やいきさつについてもご説明をしてくださり、私も実は講師でありながら、お役目を果たすより楽しく参加することが、皆さんと個々に親しくなれてうれしかったです。ウオークも地元ということで、1DAYパスでバス移動をしながらの体験は初めてのことでした。昼食も選択自由(お店)ということで、それぞれが気に入ったお店で摂るというユニークスタイル。なんだか自由で、交通費も最低限の出費・・・とみなさん「得した気分」になられたのではないでしょうか。
さて、10月21日から、後期の講座が再開しました。私の歌碑の佇むオカモのたましひのふるさととなった「交野」で、がんばって万葉の情熱を傾けたいと思っています。

新年あけましておめでとうございます。
今年は万葉うたがたり活動の35年目となりますが、成人式に出演させて頂いたのをきっかけに、まさにうたがたり元年とでも言うか、1月に万葉うたがたりをさせて頂く機会が今週だけでも3回あり、チャンスを頂戴できることは、ありがたい限りです。
昨日は、オカモも演奏のお弾き初め。
大阪の中央電気倶楽部の新年互礼会で、出演させて頂きました。
『万葉集』を歌ってほしいというご希望でしたので、万葉ファンがおられてのことだったと思います。
ともちゃんと村田さんの3人で緊張の中にも、楽しく演奏させて頂きました。
今年最初の記念写真です!

風呂敷
備前うたがたり会でコンサートなどもさせて頂き、長年お世話さまになっている日蓮宗の妙圀寺の5月1日の開山式で、「万葉うたがたり」と、参加者の皆さんで「一緒に歌う機会」を催したところ、大変多くの方々がお集まりくださいました。また、なつかしい童謡唱歌を歌ったことが印象的だったようで、高齢化して遠のく檀家さんだけのお寺ではなく、常々「寺子屋コミュニティ」を考えておられたお上人さまや、奥さまの平野さんの思いと、私たちが「音楽を楽しむこと」の協力は願ってもないこと・・・と、仲秋の名月から1ヶ月遅れの「栗名月」を設定し、10月9日に「思い出のアルバム~備前にて」を行いました。オカモ・山寺・ともちゃん熟女トリオの出演です。
ちょうど前日が、10月の十五夜の皆既月食という天体ショーの夜でもあったので、重ならなくてよかったです(笑)。

玄関1

玄関

お寺のお玄関先から、あらゆる場所に近くの野山から採ってこられたという秋の草花が、地元特産の備前焼の器にさりげなく生けてあり、
秋風にコスモスや薄の揺らぎが、何ともいえない風情を感じさせてくれました。
ほととぎす、ふじばかま、つわぶき・・・と素朴な庭花が私たちを心豊かにしてくれました。よっしゃ~!
演奏・舞台風景の写真は、また写してくださっている方があるかも知れないので、期待をしながら・・・。
でもさすがの私たちも!自然美には完敗でした(笑)。

床の間

入り口

秋の歌は「夜長」「夜更け」「夕暮れ」が多いことにあらためて感心。澄み渡った夜空に秋風が吹き、月の光や、星が瞬く・・・。
センチメンタルな気分にさせる歌をみんなで楽しく唱和しながら、またの機会を約束しました。

次代

 

 

 

 

このかわいい靴はお上人様のお孫さんのヨシハル君の靴。将来の後継者はただいまお寺のアイドルでした!