引き際の美学

美学ではない。現実との直面に自分がどう判断するか。
高橋尚子さんが引退した。残念だと思う反面、マラソン界の世代交代が
現実に進んでいることを誰もが承知しているだけに、「やっぱり!」と
思えることも事実だ。
この「引退」に関して、また過去のスポーツ選手等のマスコミ、インターネットで、
「引退の美学」について論評が盛んである。
余力を残して全盛期に辞めるタイプとボロボロになるまで燃えつくすタイプと
それこそ「個人の問題」であり、引退の形も様々だ。
ただ、スポーツ選手の場合は、第2の人生とも言うべき「今後の人生時間」が長い。
培われたスポーツ魂をいかに人生で活かせるかが、その人の生きざまとして
試されることだろう。高橋さんがんばれ!
ここからが本題。
私は「引退」という言葉の重みと、20年くらい前からずっと直面し続けてきた。
それは、恩師、犬養先生のことであり、1つ違いの祖父のことでもあった。
二人とも老いてもなお、第一線で活躍していたスーパー老人(失礼!)だったからだ。
身近なものは「老い」を認め、それなりに受け止めることができる。しかし、
社会的な場所で活躍しているにもかかわらず、そこで指摘される「老い」ほど
残酷なものはない。
だから、一般的に「ご苦労様でした。」と仕事や役職に定年があり、人間の
一生の中の起承転結の最終章として迎える「節目」として定年があるのだと思う。
しかし、厄介なのは、上記のスポーツ選手のように「自分で判断する」ことの
できないことだ。もう少し言えば、自分で判断できる時に「勇退」できる人
は問題はないのだ。「老い」は、心のコントロールをできなくしてしまう。
自分でわかっていても、もうどうにもならないのだ。
犬養先生は私たちのカリスマであり、亡くなられる最期まで「受け入れたい
人々」が圧倒的だった。でも反面、先生の尊厳を保つためには「もういいでは
ないか」という教え子たちの意見も少なくはなかった。
そのはざまで、犬養先生が現役でお仕事を続けられるならば!私はできるだけ
フォローをしよう…と覚悟しての10年間だった。
また、祖父もしかり、祖父については、「自分」しか信頼できなかったのだと
思うくらい、健康も含めて絶大な自信を持っていた。それゆえ、家族にも
私にも、ヘルパーさんたちにも!?亡くなる直前まで「いかに世の中をしっかり
生きていくか」ということのお説教をしていたくらいだ。
「老い」の余生も、人生を支えた専門知識は最後まで明晰で冴え、私たちには
足元にも及ばない一面は生涯変わらず、それは畏敬に値する。
明治人間の二人、犬養先生は91歳、祖父は97歳で旅立っていった。
二人の「偉大な師、偉大な死」を見送った私は、いよいよ自分の「引き際」が
当面の問題となってきた。
と言っても、会社務めでもなければ、主婦業の卒業もないわけで、「何様だ!」
と言われそうだが、万葉うたがたりとして「人前で活動すること」ことがある。
特にコンサートでは、「夜目・遠目・ライトのうち」と笑い飛ばしてきたが、
麗しく舞台に立つ努力はしているものの本当に現実のものとなってきた。(汗)
女性は「見かけ」も大いに影響する。皆さんに夢や楽しさこそ与えても、幻滅
させてはいけないのだ。それもひとつ。
私の2つ上の友人で「教師一筋」の人生に疑問を感じ、「人生に何かが欠けてるのでは…」
と50歳を転機に「家庭の主婦」に戻り、スポーツや趣味で日常を謳歌されている
人がいる。一緒に音楽バンドをやろう!と私も誘われている。
また、犬養先生の教え子で、まだまだ働き盛りの有能な紳士は、世間が惜しむ声を
背に60歳の定年を機に自由な生活を選ばれた。
私は、毎日時の流れに身を任せているような生活に、怖さを感じている。
私も自分の生活をもう一度見直して自分にとっての「人生の美学」はなにか、
自分できちんと判断できる間に(笑)決断したいものだ。
現実からの逃避ではない。
通帳だけでなく、人生の残高も気になっていますので…。(笑)


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