共に悲しむこと、悲しむ心。

神戸新聞の第一面の正平調というエッセーは、どなたが書かれるのか、素晴らしい論説を
いつも欠かさず楽しみに見ている。
連休の頃、五木寛之さんの「他力」について、書かれていた。
五木さんの言う「他力」とは、すべての人を救う阿弥陀如来の力で、すなわち浄土真宗を
開いた親鸞の教えである。それを頼みに生きることを「他力本願」と言われる。
親鸞は、天変地異が続く時代に生まれ、京の都の大火、突風で家が吹き飛ばされ、地震で
山は崩れ、川が埋まり、飢えた人々が野山をさまよい歩く状況で、何に救いを求めればいい
のか、迷い悩む若き親鸞の姿を五木さんが小説に描いている。
東日本大震災に重ね合わせ、無数の悲しみが折り重なる被災地に立てば、親鸞はどんな
思いを抱くだろうとの問いに、五木さんは、ただ黙って涙を流し、人の重荷を少しでも
引き受けようとする、それが親鸞の目指した救いだと考える。
大切なのは、「頑張れ」と言う励ましより、ともに悲しむ心ではないのか・・・と。
論説は、私たちが16年前に体験した震災を振り返って「私たちを生かした他力は何だった
のだろう」とあらためて考え、私たちに問われている。
キリストの救いにも、マタイの福音書に「来なさい、重荷を負うもの。私はあなたを
休ませる」という一節があり、共通して「相手を受け入れ、共に重荷を背負って歩む姿」が
表されている。
偶然に、4月にコンサートをさせて頂いた真光寺は西本願寺派の浄土真宗のお寺だったし、
また越前バス旅行で訪れた毫摂寺も浄土真宗の真宗出雲寺派のお寺で、「親鸞」の文字を
引き続き何度も目にしていたことが、特に気になっていたこともあり、論説も特に、興味
深かった。「親鸞」をもう一度ゆっくり読んでみようと思う。
「自分の痛みを知ってこそ、他人の痛みもわかる」というけれど、自分の痛みがあっても
他人を理解できない人も多いのが現実だ。反対に、他人の痛みで「健常者」がPTSDに陥る
現代人の心のひ弱さも露呈されている。
そうなると、宗教以前の「人間力」が試される今日の問題にも発展していきそうだ。
私は論説を読んで、正直ほっとした。毎日報道を見ることのひたすらつらいこと。私たちも
同じ経験を、また思いをしたことで、同情をするしかできない私。それでいいのだ!
 母の丹精したベランダの爛漫。
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