オームの思い出。

オーム真理教の凶悪犯罪に対して、死刑宣告を受けた半分の罪人が本日死刑執行された。

24年という歳月は、私たち阪神淡路大震災で被災したものにとっては、忘れられない時間だ。平成7年1月17日に震災が起こった。すべての報道が地震1色だったが、3月20日に地下鉄サリン事件が起こってからは、阪神淡路大震災の報道は水面下のものとなってしまい、国民の話題、注目がすっかり震災報道から切り替わったことを鮮明に覚えている。被災者の私たちはオーム事件のことよりも日々の生活に追われたが、サリン事件によって国民の関心があっという間に移っていった。その後、東日本でも熊本でも「ずっと忘れてはならない!」という呼びかけのフレーズが叫ばれるように、まさに新たな事件・話題がおこるたびに悲しいかな、人々の心はそちらへ誘導されてしまうのだ。

さて、犬養先生が被災されて、翌日の100基目の高松塚の歌碑除幕騒動のあと、1か月間橿原ロイヤルホテルで過ごされ、その後武庫川団地の阪大教え子のマンションに仮住まいされた。そして数か月たって、久寿川の家を建て直すまでどうぞ・・・と宝塚の仁川にあるやはり教え子の方の建てられた1軒家を借りて、住まわれた。そこでは最低限の生活で、犬養先生は何もすることがなくて(できなくて)、1日中テレビの前で過ごしておられた。阪大生が冗談で持ち込んだオーム真理教の雑誌が何冊かあり、熱心に読んでおられた。そして連日サリン事件後のテレビ報道を見ながら犬養先生の記憶力のすごさというか、なんと麻原率いる幹部や、インタビューなどに応える信者たちの「ホーリーネーム」をすっかり覚えておられたのだ。一緒にテレビを見ていた私に「あの人は・・・って言うんだよ!」と得意げに次々と教えてくださったときは、本当に犬養先生の好奇心と記憶力に驚いた。(ちょっと楽しそうだった) 仕事どころか、なにもできない環境にあって1日中椅子に座って無為に過ごされる姿が気になっていただけに、この衝撃的なオームの話題は犬養先生の連日の関心事となっていた。私だけが知っているエピソードかも???(笑)

あれから24年。阪神淡路震災もオーム真理教も地下鉄サリン事件もまったく知らない若者が増えていると聞く。ならば、70年以上前の太平洋戦争などは若者にとってもはや風化してしまってるのだろうか。それも恐ろしいことだ。