16年前の追憶

極寒の5時46分に、各地の追悼に集まられた方々のニュースを見た。
年を重ね、天候にも左右され、もう現地にいかなくても追悼することは許されるのでは
ないか。遠藤周作の「沈黙」ではないけれど、神様はそう言ってくださるのではないかと
思う。12月のコンサートでも、震災15年目ということで、震災の震源地である淡路島の
野島が万葉歌に詠われた「別れたくないタンゴ」を演奏した。
私も被災者の一人として、忘れることのできない悲しい残酷な思い出だ。
16年前の前日のことを思い出した。娘が高校二年生で、いよいよ大学受験の年を迎え、
成人式の連休を利用して、二人で三宮に出かけた。
現役予備校の下見に、代々木ゼミナールへ行った。翌日の地震では、隣の柏ビルが
ものの見事に垂直に倒れ、あとあとのテレビ映像でも何度も放送され、前日のあまりの
身近な記憶に、唖然とした。帰宅して半日も経たない後、三宮の町の壊滅的な状況が
信じられなかった。
後日、娘と、あの日は偶然に私たちが神戸の町にお別れに行ったみたいやね・・・と話したが、
それ以来16年?いまだ、私は仕事以外、買い物も、食事も神戸へ出かけることはない。
なんだか、神戸に対してトラウマができてしまっている。
復興の光イベント、ルミナリエにも行ったことがない。「一度行ったら感動するよ!」と
言われ続けながら、震災直後は私の生活に追われ、復興の光どころではなかったし、
県外や、物見遊山で来る人々に、神戸の街は混乱であふれかえり、へそまがりな私は
ルミナリエに余計否定的になってしまった。いまだに行きたい気持ちは全く起こらない。
それも、被災者の心の本音のひとつでもあると思っている。
娘は昨年、小学校の演劇のワークショップで、神戸市の長田の小学校から依頼を受けて、
「被災地」からの発信ということで、子供たちと演劇作りを通してかかわった時に、
当の子供たちが、震災のことを知らないことに、驚きを超えてショックだったと私に
話してくれた。3回シリーズのワークショップだったそうで、まず「次回までに家族のだれ
でもいいから地震のことをきいてきて!」と宿題を出したと言う。
そこから地震や、安全や人との助けあいや…話は発展し、みんなが「地震や震災を考える」
テーマに従い、学んだことだろうが、長田と言うもっとも被害の甚大な地域でさえ、後に
生まれた子供たちにはあのときのことがもう伝えられていないことに娘はびっくりした
ようだし、私も現実ってそんなものなのかなあと言う気持ちがした。
戦争にこりごりの人たちは、これから家族が安全に幸せに暮らすことだけに執着し、わざと
過去や悲しみや苦しみから目をそむけて戦後を乗り切ってきたことと同じような感覚かも
しれない。「言い伝えること」の教訓は、昔も今もどこか、置き去りにされているような
気がする。
もちろん、あのような不幸には二度と会いたくないという気持ちは同感であるが、それが
過去の記憶として消えていくことの不幸は、もっとも悲しいことだ。
1月17日のような地震が起こりませんように…。もし日本のどこかで起こった時に、私たちの
被災の教訓が少しでも生かされますように…願わずにはいられない。


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