人間のつけ・・・。

来週、母が80才になる。
「年齢」や「老い」をしみじみ認めながら、いよいよ20年に亘る市民運動から完全に勇退
しようとしているこの時期、世の中の混乱と悲惨な状況に、何とも言えないためいきが
漏れそうになる。
母が、45歳の時に初孫の司が誕生し、その後、弟の子供たちも含め孫が3人の「おばあちゃん」
になった頃から、切実に孫の将来、社会、環境などなどが気にかかるようになったと言う。
「この子たちが、無事に成長して、安全な社会で過ごすことができるかどうか・・・そのため
に私のできることは何だろうか」といても立っても、いられなくなったようだ。
まず大前研一さんの提唱の「平成維新の会」(今は平成維新を実現する会として存続して
いる。)に入会し、会合や勉強会に参加するようになった。
女性が少なかったことから世話役となったり、また近畿地方の同士の女性が集った「明日の風」
の命名者でもある。有力メンバーとして、大前さんの国会議員選挙や、都知事選挙をはじめ、
国政に関する議員の応援をしたり、選挙協力をしたり、社会や政治に関心のある私も母の
影響を受けて、積極的に協力をすることもあった。
その後、母は、地元の活動にシフトを変えて、兵庫県の市民オンブズマンの代表世話人の
一人として、県を相手に税金の無駄遣いを正したり、兵庫県の健全な財政の再建のための
お目付け役として、頑張っていた。世間知らずの専業主婦の母だったが、それだけに正面から
純粋な心で取り組んでいけるので、母の疑問や問いかけは、ごくあたりまえの市民声だったと
思う。
一度、兵庫県へ陳情に行った時に私もついて行ったことがあり、たまたまテレビの報道
ステーションに映ったことがあった。それを見られた故松田一二さんから、君は自治体や
行政の仕事もしているのなら、君の主義思想は自由だけれど、万葉うたがたりをやるなら、
表だっての市民活動は控えなさい・・・と叱られたことを思い出す。
以来、隠れ市民運動家?として、意識は常に母と共有している。
前置きが長くなったが、東日本の大震災で、今は2次災害の原発施設の不安が、高まって
いる。原発については、各県の誘致問題や、安全性など、全国のオンブズマン会議などで
研究会を開いたり、検証したり、問題点をずっと指摘し続けてきたが、結果的に行政を
中心に進められてきた事業である。地震国日本における危険性や、万が一の対処なども
ずっと問われてきたことだ。今テレビで「最悪の事態・状況」に、言葉を濁しながら
専門家たちが、説明したりコメントしているが、残念ながら私たちは「もしもの事態」の
現実を今実感しつつある。
原発における電力の供給や、ダムなどの必要性はあっても、今までの日本の政治の中での
決断は、既得権や、談合や、正当な決め方をされているものは少ない。
被災の爪跡のニュースから新たな恐怖への報道を眺めながら、やりきれない気持ちが残る。
どうぞ、これ以上の人的被害が出ませんように…。
体力も気力も限界と言う母が、20年に亘る市民活動に終止符を打とうとしているが、
母をお手本に、岡本家の家族それぞれが社会を見据え、政治や経済にも興味を持ち、自分の
意見や判断をもって、行動にうつしていく姿勢は、まさに母の影響力であろう。
子供や孫の将来を案じて、参加した市民運動の最後に、このような状況となったことに
感慨も一段と深く、無念も大きいことだろう。
福島原発3号機の炉心溶解のニュースで目覚めた今日、あれこれの思い出がかけめぐった。

どうぞ、ご無事で…。

国内観測史上最大の地震が起こった。マグニチュード8.8.
昨日、宝塚のコープカルチャーを終え、めずらしくそのまま帰宅したその5時頃、
まず、特別報道のテレビ放映に驚いた矢先、娘からの従兄弟たちの安否を確認する電話が
入り、はじめて事の深刻さを知った。
また大阪も留守番部隊でサロンにいた山寺さんが、経験をしたことのないような長い
横揺れに、船酔い状態になり、気持ちが悪くなって、思わず外に出た…ということを聞き、
関東の地震が大阪でもかなり大きい影響をもたらしていた。
娘からは、「ツイッター」というツールのつぶやきで、従妹の様子を知ったらしく、
その後の詳細を尋ねてきたが、携帯電話も、携帯メールも繋がらず、なかなか情報を
確認できるまで時間がかかり、もどかしい思いだった。
地震・雷・火事・おやじというように、トップに挙げられる「地震」の怖さを再び思い
知らされた。今回は「津波」による甚大な被害に、2日目の朝の今、まだまだ被害状況も
はっきりしていないが、「水」による集落・住居・人命の一挙の神隠しに、ただただ
戸惑い、信じがたい悪夢としか言いようのない悲しさがある。
阪神淡路大震災や、クライストチャーチの地震のように、がれきに埋まる恐怖もある地震
だが、今回の恐怖は、コンビナートなどの大規模火災や、前々から言われていた、日本の
海の傍にある原発施設の二次災害など、まだまだ危険が続く。
余震の続く今、まだ地震がおさまったと言えない状況下で、復旧や救助も目処が立たない
ことだろう。
東京の友人や、万葉故地の知人の方に電話をしてみてももちろん繋がらない。
かつての私たちがそうであったように、無事を祈るのみだ…。
先日、大阪公演中帰宅していた娘と偶然16年前の震災の話になった。
メデイア、中でもテレビの報道について、目を皿のようにして、自分の関係者が映るかも
と心配しながら全国の人が、見ているのだから、たった1つのチャンネルでもいいから
病院も含めて避難の人たちを「映して」、私は生きてます!ということをメッセージ
できる機会を作ることが報道の本当の使命ではないか!と言ったが、本当にその通りだと
実感した。
どの局も「報道」?というより、選挙番組や夕方のワイドショーと錯覚するような同じ
切り口、中身、レポートで、本当に私たちが知りたいことが放送されていないような気が
する。それでも昨夜から24時間つけっぱなしで、状況を見守っている。
ここ西宮では、いつもとかわらぬ朝を迎えた。ベランダで洗濯物を干していると
道行く中学生の笑い声が響く。犬の散歩をするおばさん。ジョギングのおじさん。
いつもの営みが行われている。
いつも娘と話すことは、喉元過ぎて熱さを忘れる私たちが、それでも現実の被災者として
経験をしたことが、「恐怖・悲しさ・教訓・痛み」を分かち合えるのではないかと思える
ことが救いやね…と。
神様の警告でもある、天変地異。これ以上の被害がおきませんように…。

精華小劇場「蘇りて歌はん」千秋楽!

娘の所属する劇団、遊劇体の第51回公演は、精華演劇祭にエントリーした作品であるが、
また、会場である、元精華小学校(精華小劇場)が、2007年に10年以内に売却予定という、
大阪市の方針によりこの3月で閉館が決まってしまったことを受けて、キタモトマサヤ氏が
関西小劇場の父と言われる中島陸郎氏の未上演戯曲の上演に取り組まれた最後の演劇祭。
中島陸郎氏は、関西の前衛演劇の草分け的な存在である「月光会」で活動されたのち、
演劇プロデューサーとして阪急ファイブのオレンジルームをはじめ、関西の演劇環境の整備に
尽力された方で、亡くなられて十年余、小劇団が使ってきた劇場が次々となくなっていく今、
作品の内容も、劇中の「零の会」と言う劇団が崩壊していく様子が描かれたものである。
演出のキタモトマサヤ氏は、「理想を求めて、その追求の為に人々は集まったとしても
それは、遅かれ早かれ瓦解の道を歩むということを知っていて、その現実の残酷さは
悲しいものなのだ」と述べておられるが、その作品「蘇りて歌はん」を精華小劇場閉館の
レクイエムとしても捧げられた。
劇中の中島陸郎氏の心酔していた師、上村道義こと劇団主宰者は、俳優の(故)内田朝雄で
あるらしい。内田朝雄さんは、悪役でテレビ界のスターであったが、劇団崩壊は、その進出
以前のノンフィクションであったのだろうか。犬養先生の出演された関西テレビ制作の
「万葉の旅」で甲南女子大のゼミ生と唐津や松浦川を訪ねられた時のゲストだった。
それを想い出したので、自身の舞台人の理念を捨て、劇団員を捨てた以後の内田さんの
姿だったのかな・・・なんて今になって思ったりもした。
劇団の崩壊劇と言えど、人間世界の、それぞれの人の生き方や、目的や、人間関係は、
私たちが常に経験するありきたりの状況でもあった。劇中の上村の語る言葉は、素晴らしい
「正論」で、観劇中も「その言葉」に納得もし、感心もした。しかし「現実」という局面で
人は試され、正体を表していくのだと思う。長田武(中島陸郎氏)の語りで、「人間は1度
しか生きられないところを、役者は、いろんな人生を何度も経験することができるのだ」と
語った言葉が耳に残っている。いろんな人間を演じることによって、いろんな人間の立場や
思想や生き様を得て、役者は「人間として」育っていくのだろう。素晴らしい仕事だ。
3時間の超大作だったが、精華小劇場の環境を生かして、キタモトマジックによる舞台は、
面白い、泉鏡花の「山吹」の時も感動したが、劇場のドアの向こうにもう一つのドラマが
あった。むづかしいながらも、集中して「聞いた」作品だった。
大阪市初の公立劇場として、2004年に開場した精華小劇場が今月で閉館する。
大阪の劇場の未来をを期待されながら、大阪市や府は財政事情を盾に、文化・芸術の発信
基地を次々に閉ざしていく。音楽・演劇などの大衆文化は、社会を反映したり、いろんな人の
心をケアしたり、感動を与えたり、人間の情緒に訴える右脳は、人間のバランス感覚に必要な
ものだ。税金の無駄遣いをまっさきに「心」「感性」「表現」を天秤にかけるビジョンも
ない、行政の無神経さに哀しさが募る。
精華小劇場の「精神」よ、永遠に! 解散のエネルギーを挑戦の力に変えて精華演劇祭
は最後まで走り続けるというメッセージに…大きくエールをおくる!!!!!
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万葉うたがたりコンサート・番外編

昨年12月4日の岡本三千代『万葉集』を歌うコンサートから、はや、3ヶ月。
2011年の万葉うたがたり会の仕事始めは、先月のMBSラジオウオークからスタート
致しましたが、昨日のコンサートが、TSUBAICHIでの第1回目の万葉うたがたりと
なりました。
そして、自分の中で、30周年を総括すべく「30周年の番外編」として、プログラムを
組みました。第1部は、万葉うたがたり会のメンバーにスポットをあてて「われら万葉衆」。
そして、それぞれの選んでくれた万葉曲をご紹介しました。
村田道代「いや重け吉事」、山口ひとみ「祝婚歌」、園田知子「夏野の恋歌」、山寺寿子
「石見シンフォニー」、そして私は扇野聖史さんの名曲「黒人流離」を選びました。
それぞれの仲間たちの思いと、それらの私の万葉歌の背景やエピソードを語りながら、
楽しくなつかしく演奏をしました。ご来場のみなさまには、うたがたりの「歴史」も
少しは感じて頂けたかな・・・と思います。
第2部は、私がご披露、または報告しておきたかった昨年のこと…。
30周年を記念して作った「言霊の幸ふ国へ」、TSUBAICHIで万葉花カレンダーを
作ったことと1枚目のゆづりはの歌「いのちの賛歌」、筑波山神社の歌碑と、味真野の
万葉歌碑の裏面に「岡本三千代」と刻んで頂いた歌碑ができたことでゆかりの「東歌」と
「万葉ジェルソミーナ」。今春奈良女子大学大学院を修了するにあたっての感慨と、論文の
テーマに選んだ「富士山」歌をご紹介。
そして、最後には全員で私の原点となった「二上エレジー」を合唱し、約束通り、みんなで
乾杯!
お支え、お見守り、お励ましを本当にありがとうございました。これからもよろしく…。
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吉本愛子さんには、12月より良かったわ!と言われちゃいました???(汗)
「オカモがオカモらしくあったコンサートだった…」って。
そうかもしれません。時間の制約や、大人数のプロジェクトを台本通りに進めることの
束縛から解放され、また大学院の修士論文からも解放され、昨日は、平常心にもどっての
ひたすら楽しい時間でしたから…。
ご来場の皆様、本当にありがとうございました。
素晴らしい才能と、美貌と、人徳に恵まれたうたがたりファミリーに心から感謝!
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こけだま

今、はやっているらしい「苔玉」を頂きました。・・・パイン???
マンションで月・木のゴミの日にお掃除をしてくださる老婦人ですが、2月末で定年退職に
なられたとか。私は誰とでも(娘は人みしりをしないという!)ご挨拶をするし、
感謝もするし、労いもするので、すぐ日常の方々とお友達になってしまいます。(笑)
きっとそんな人が少なかったのかも・・・もうお仕事が終わっておられるのにわざわざ
お餞別に持って来てくださったようでした。
私が玄関前のドアに弦の長い「ポトス」をかけてたり、お正月に「葉ボタンの鉢」などを
置いておいたせいのようです。「奥さんは、お花がお好きなようやから・・・」と。
この苔玉も、谷九まで探して買って来てくださったとか。本当にありがとうございます。
恐縮しながら、これからもお元気でお過ごしくださいねとお別れしました。
これも一期一会のご縁。ちなみに、私は、道隣の私が住んでもいないマンションの
管理人のおじさんとも、毎朝出勤の通りがかりに顔見知りになり、昨秋は「ラジオ放送の
出番の宣伝」などもしちゃいました!
この苔玉を見るたびに「お掃除のおばさん」のことを思い出すことでしょう。
これも「たましひ」の世界だ! 日々の出会いも楽しい!